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うらまご/まごまご日記/まごっと/まごれびゅ/P-FUNK/maggot

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■2000/12/03 Sun■  ボ汁ボ

 あら、気がついたらもう12月だった。どんづまりのどんづまりだねぇ、世紀末の。末期的どんづまり状況とでもいいましょうか、何がやねん(-.-;) いへ、別にこれといって末期的なんてことはなにもなくて、あ、ほんまに、否定すれば否定するほど勘ぐられるけれど、これといって末期的なことなどなんもなくて、ボク的には非常に楽観的よ。ただ「末期的どんづまり状況」なんてことばがふっと頭をかすめて、ちょこっと使ってみただけ。そういあ、啄木に、時代閉塞のなんちゃらかんちゃらってのがあったかなぁ。啄木の場合はもっとアグレッシブに「末期的どんづまり状況」を思い詰めていたフシがあるけれど、いまそういう、世紀末だからどうだとか、もうすぐ21世紀だからどうだなんてことはほとんど思うこともないよなぁ。どうにでもなれって感じ。むしろ紋次郎風に「あっしにゃ関わりござんせん」
 というわけで、久しぶりに神戸でデートしたって(笑) と、いうても彼女とおデートなんてもんちゃうもんねぇ。うは、でも彼女でなくても若い女の子と街の中をあっちの店、こっちの店とふらふら見て回るのってボクとしては大事。スタバでカフェモカ飲みながら、「ボボ」というのは、九州でいうオメコのことだとか、しゃべって、相変わらず変態なの(自爆) さてその相手はだれでしょ〜〜(爆)
 あ、そうそう大事といえば、土曜日にはヤモと100円ラーメン+オムライス=430円で、そのあとゆっくりコーヒーを飲んで、うだうだしゃべってた。それも大事。イヂワルッてのは英語でナスティーというんだとか、どっかでナスティーって聞いたよなぁって思ってたら、あ、そうそうビースティーだったんだとか夜になって思いだしたんだけど。

 というようにとりとめもなくラスト1ヶ月ですね。


■2001/12/03 Mon■ 

BEASTIE BOYS
ILL COMUNICATION
 きのう「いまどき」と書いて、もうひとつおっさんタームがあったのだけど、思い出せない。さすがの「老人力」。さっき、荻野アンナの『ベティ・ブルーの世紀末ブルース』を読んでたら、そのタームが出てきたのだった。
まったく、きょうび、眉毛に唾をつけずに見られる恋愛映画なんてヒマラヤの雪男同様存在があやぶまれる。
 この荻野アンナって女、だいたいにおいて男やからなぁ、しかもかなりオッサンが入ってる。と、思っていま略歴を調べたら、インターネットって便利ね。
1956年(昭和31年)、横浜市生まれ。慶応義塾大学仏文科入学後、パリ第四大学留学を経て慶應義塾大学大学院博士課程修了。中上健次・坂口安吾を扱う評論で執筆活動を開始。大学院修了後の1989年に、最初の小説「うちのお母んがお茶を飲む」を発表。つづけて「ドアを閉めるな」「スペインの城」を発表し、「背負い水」で第105回芥川賞受賞(1991)。
 ありゃ、もっと若いと思うてた。これじゃ同世代じゃないの。おばはんなのだ。だから「きょうび」などと出てきても別段不思議でもなんでもなくて、極く当然なのだわ。ちっ、「きょうびの30代の女と来たら。。。」などと書いてやろうなどと目論んだのに当てが外れた。しかし、「きょうび」というのはやっぱり「今日日」と書くのだろうか。なんかしっくり来ないな。

 月曜日は朝からまた雅子出産でテレビが鬱陶しい。アホみたい。「出産騒動について書いた日記を集めてみました」というところにリンクされてたりしたけど、出産騒動についてなんか書いたつもりちゃうのになぁ。鬱陶しいんじゃいと書いただけなのに。静香男児出産で日本中が喜んだのかい。工藤静香が男の子生んだのも、雅子が女の子生んだのもボクにとったら同じような他人事。裕仁が下血繰り返して死んだのも他人事だったのと同じように全く無縁の他人事。どこぞの駅のトイレの中で誰が父親かもわからん子どもが生まれたのと同じくらい他人事。ボクのまわりで「可愛い女の子、生みはってよろしおましたなぁ」などという会話すら聞いたこともない。けっ。


--------------本日の食事
朝 サンドイッチ、コーヒー1
昼 レタスサンド
夕 豚の生姜焼き


■2004/12/03 Fri■  yesかnoかの状況

 というわけで、『ねじまき鳥クロニクル』を読み始めてるんだが、例えば
十時前に雨が降りはじめた。たいした雨ではない。降っているのかいないのかよくわからない程度のかすかな雨だ。でも目を凝らして見ると、たしかに雨が降っていることがわかる。世界には雨が降っている状況と、雨が降っていない状況があり、その状況にはどこかで境界線が引かれなくてはならないのだ。僕はしばらくのあいだ、縁側に腰を下ろして、そのどこかにあるはずの境界線をじっと睨んでいた。
 たぶん、これはあとから、こっち側とあっち側の境界線というような意味をもつのかもしれないけれど(まだ第5章までしか読んでない)、これを読みながら、雨の降ってるところと降ってないところの境目というのは小さいころにすごく気になったことを思い出した。その境目はきっちりと線を引けるようなものでなく、かなり曖昧としているということに大きくなって気がついた。つまり、「降っているのかいないのかよくわからない程度のかすかな雨」の降るところが、線ではなく、帯のように連なっている。雨の降りはじめというのはまさにそのような帯が自分のところに動いてきている。
 そのことは誰もが体験しているのに、それが境目であるとほとんど誰もが思っていない。みんなもっと明確な境目、雨の激しさが連続的に変化する境界帯じゃなく、降っている降っていないの不連続な境界線を見たがる。そのようなかなり(激しさの変化が)不連続な境界線が存在しないこともないけれど、それとて変化があまりに急激なだけだ。そうすると、境界線などではなくて、境界帯でしかない。その帯の中での変化が急激であるか、緩慢かの差はあるにせよ。
 こう言うとまた、どこまでが帯なんだという人もいるんだろうな。物理の話にすると、雨粒が落下するときにはじめは重力だけでgの加速度で落下するが、雨粒の落下速度に比例して空気抵抗を受け、加速度は小さくなって、やがて一定速度(終端速度)で落下する。その現象でいつ終端速度になるのかを知りたがるのと同じようにナンセンスなんだよ。
 雨に限ったことでなく、さまざまな状況に人間は境界線を引きたがる。たとえば生死の境界線。脈拍で判断するのか、脳波で判断するとか。が、死に行く人は生から死への境界帯のなかにあるにすぎないんじゃないか。何をもって死と判定するか、それは何をもって雨が降っていると判断するのかと同じじゃないのか。

 そんなことを考えながら読んでいると、なかなか読み進まない。と、同時に作家ってのは大変だなぁと思う。日常的に感じたりしたことを膨らませて作品の中にとり込んでくるわけだから、そんなものはまめにメモでもしておかないと、さっさと忘却の彼方に追いやられてしまう。もっともそうして固定しようとすると「雨が降っている状況」なんてことばに変質してしまうんだろうな。そんな「雨が降っている状況」ということばにはとても違和感を感じてしまうのだった。




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