んで、その「すんません」と口をついてしまうのがどうにこうにも悔しいと、友だちに話してたら、その「すんません」というのは「おまえとはしゃべりたないわい」ということだろ。だからそれは謝ってるのでも何でもなくて拒絶の意志を表すのだと。なるほど、そうか、ものは考えようだ。
う〜んとそうい言われて考えてみると、「また電話するわ」というのも、一種の拒絶のことばとして使ってたよな。
《「不毛」それ自体が生きてゆく手がかりとなりはじめた。廃墟にある文明の究極の静けさが未来に旅立ちとなった。写真の素晴らしいところは、その表現が「究極の無」であることだ。「そこに何もない」その爽やかさが僕を飽きさせない。宇宙そのもののように。》
バイクで走り回って、野宿を繰り返していたときに、朝になってテントを撤収する。そうすると、ついさっきまであった空間が消えてしまう。ポリエステルだか、なんだかの薄い布によって仕切られた空間の中でボク自身の非日常的な生活があったことなどもう忘れてしまったような、何もなくなった空間を見ていた。 同じことが紅テントや黒テントでの芝居、もっと遡れば、寺山修司のあのサーカス小屋なども同様に、そこに仕切られていたはずの劇的空間に、いまはただ風が吹き抜けるだけ。その「無」を体験して、なおさらそこにあった空間が愛おしく思えてくる。匂いが脳の一部に刻み込まれる。 不思議なことに、ボクが写真に撮ってきたものは、それからしばらく後には撮り壊されてしまう。やがてその同じ場所に新しくものが生まれる。 こんなことをしみじみ考えてしまうのも秋のせいかもしれない。