ところで年末にスキーに行ったときに、そろそろ死んだときにどうするか、いやどうしてもらうのか、そろそろ決めておこうということになって、とにかく坊主の世話にはなりたくない。もちろん戒名などというくだらんものは絶対に要らないということになった。今は法律が変わって、骨は墓に入れなくてもよくなったので、それならどこに撒いてもらおうかって話にまでなって、とあるふとどきものは、阪堺線の大和川鉄橋に架かる鉄橋の枕木の上に骨壷を置いておくと、チン電の振動で川に落ちるから、そんでいいと。また別のふとどきものは江の川に濁川が流れ込む合流点、つまり10年ほど前に鴨鍋宴会をやった河原から川に流してほしい。ボクは津軽海峡でぽっちゃんというのも考えたんだけど、そこまで持ってってもらうのもたいそうだから、大阪で生れた男やさかい、中之島の剣先公園のへんで撒いてくれたらそんでよろし。ところで一番のふとどきものは、嫁さんのしたいようにしたらええ、なんて何考えてんだ。
ね、なかなかお正月にふさわしい素敵な話題でしょ。まるで一休さんみたい。要は、年が変わろうが、何であれ、好き勝手に生きていこうって、ただそれだけ。
そうそう世間的に「性格の悪い女」?これに尽きるぞ。谷崎潤一郎先生もそうお書きになっておらっしゃった。颯子。 それでですね、『猟奇的な彼女』を見て、すっと頭に浮かんだのはキミだ! ぎゃははは! って、でも2人、3人、4人・・・とボクの好きになった女はすべからくヨプキな女。どうする?(笑) 思い当たるそこの彼女、今からでも遅くないから、山内一豊の妻や華岡青洲の妻になりなはれ。
ところで、話は元に戻りますが、決断力というか、そうたいそうなもんではなくて、思いきりの良さでもなくて、思いついたらすぐ行動に移せるというのはエエことだよ。それもしてみたいけど、あれしてこれして、そんでからなんて考えてたらいつまでたっても始まらない。結局、あのときああしといたら良かったぁなんて悔やむばかり。やってみておもろなかったら止めたらエエねんし、食わず嫌いならぬ、やらず嫌いってことにもならんで済むっしょ。 もっとも思いついたことをすぐさま行動に移すってのはヱエだろうけど、思ったことを何でも口に出してたらあきませんけど(苦笑)
でね、この頃思うのがね、これって年のせいなのか、年というより世代の問題のほうが比重でかいと思うんだけれど、愛を語るピッチが速すぎる。つまり愛を語る手段が、手紙がいわゆる電子メールになり、電子メールがe-mailになり、携帯メールになりとどんどんピッチが速くなってきている。 (注:電子メールとe-mailと同じようなもんだけど、とりあえずはニフティまでのパソコン通信でのメールを電子メールと区別してみた)その速さについていけない。速くなった分、表層なだれのようになって、上っ滑りなことばを平気で流してしまう。 それよりも何よりもポストに見慣れた文字の表書きのピンクの封筒を見つけ出すときのワクワク感、はたまたなんでないのだと郵便配達のおっさんを追いかけていって間違うとらんかと言いたくなるようなジリジリ感ってのはもう味わえないんだろうな。で、ぎしっと書き込まれた、さらにその行間まで読みつくさないと気が済まなかったのって、いまとなったら何だったんだろ。そして1つの手紙から次の手紙までの空白の時間、なんだか、その時間ってすごく大切だった気がする。 たかが10年ほど前から、それが電子メールにとって代わられて、その時間が1日と短くなった。そしてなによりも、字体そのものが醸しだしてくれていた匂いがはく奪された。それでも、電子メールの、郵便配達のおっさんだとか、人の目に触れずに直接に飛び込んでくる秘密性のようなものにとり憑かれた。パソコンを起動して、あるいはパソコンをグレ電にぶちこんで、ピピピビーガガガガァーの向こうから飛び込んでくるその瞬間がたまらなく好きだった。そして微妙な行間の読み合い。 携帯に来たメールを試しに、e-mailに転送してみる。目一杯書き込まれて来たのでも、メーラーで見ると、2行、3行。行間というのが全くない。行間を読もうという愛が感じられるどころか、ほんとに行間というのがないのだ。文字数の制限の前に行間など送ることはできないのだ。もうひとつ大きな原因は入力方法。いくら《はぁと》が赤く揺れようが、この機種依存丸出しの絵文字を多用されたところで即物的ではあっても詩的じゃない。送られるのは、文章じゃなく単語の羅列。愛は携帯メールでは送れなくなったのか。 そしてあの甘美な空白の時間は数日から数分に。言葉に酔ってる閑などありはしない。いくらギャルが速かろうとキーボードに太刀打ちできないだろう入力方法で、いかに素早くレスを返すことができるかにかかってたりするのだから。もっとも文章でなく単語でしか愛を語れなくなってしまってるのだから、いわんやおや。