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うらまご/まごまご日記/まごっと/まごれびゅ/P-FUNK/maggot

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■2004/11/01 Mon■  ヒューゥンという音とともにメールは飛んでいく [長年日記]

 メールというのはどきどきする。
 というのは、いま使ってるMacのメーラーはそのものずばりの《Mail》なんだが、送信ボタンをクリックすると、飛行機が飛び立つようなヒューゥンという音がして飛んでいってしまう。まさに飛んで行ってしまう。もう取り戻せないんだね。
 昔、ニフやってたときは、ニフのサーバーに入って、相手がまだ受信していなければ、一度送信したメールを削除することができた。Pちゃんがボクあてにメールを送ったのに、ボクが受信しないでいたので削除されてたことが何度かあった。その削除したというのも記録に残っていて、あとから「削除したやろぉー(-_-;)」とメールを送って、「もういっぺん送ってよぉ」とお願いして送り直してもらったこともあった。何、書いてんですか、急に>自分
 ニフからインターネットになって、メールで変ったことといえば、一度出したメールは取り戻せない。あー、これは郵便でも同じか。一度ポストに入れてしまった手紙は、よっぽど郵便局にお願いしない限り、つか、まず100%近く取り戻せないだろう。
 話が全然前に進んでないんですが、このまごまご日記も一度アップしてから読み直して、いわゆる推敲もどきのことやってしまったりしてる。あー、ここんとこはこれじゃまずいな、とかね。要するにテキストがまだ自分の力の及ぶ範囲にあるわけ。ところがメールとなると、ヒューゥンという音とともに自分の力が及ぶ範囲から飛び出してしまう。実際に目の前のしゃべっている相手に対して、一度口から出たことばは再び飲み込むことができないのと同じだね。もっとも、その場合は状況に応じてリアルタイムにその返答が変えられることもある。ところがメールの場合は、それからいくばくかの時間が必要で、その時間で、膨らんで返ってきたり、ときには曲解され、自分が思った以上の展開になることもあったりする。振幅の大きさって言ったらいいんだろうか。物理的には振幅と周期には関係性がないけれど、こうした人と人とのことばのやりとりでは振幅は周期と無関係とは言えないんじゃないか。
 そういうことをごちょごちょ考えていると、ヒューゥンという音にさいころを投げたような緊張感があってたまらなくどきどきする。その緊張感を倍加させるのに、ボクはあえて一度書いたメールは読み返しもせずに、エィヤッとクリック一発。推敲はあなたにまかせます。



■2004/11/03 Wed■  2年ぶりのツーリング [長年日記]

 ほんと久しぶりにテントでツーリングに出た。考えてみれば、去年は1度も大阪府か外にバイクで出たことはなくて、オイル交換さえ1度もしないで終わった。おとどしも春に城が森林道を走って、今年こそ走るぞと思いながら頓挫。今年はさすがにオイルを交換してちょっとは走ろうかと思っていたのに。月曜に酔狂に誘われなかったら今年も走らずじまいになるところだった。

 2年ぶりのツーリングは勝手知ったる潮岬まで。夏にニャーたちと車で回ったのとは逆まわり。もうほとんど走りつくしたようなところだし、久々に走るとあって、別にあっちこっち寄り道しようってわけではないから、ツーリングマップもなしにひたすら走る。さいわい2日間、ぽかぽかといい天気、日ごろの行いの良さですね。酔狂は半年近く前に買った新しいスクーターで、上品に走ろうなって言うんで、それは上品でしたよ。つうか、2年ぶりに走るとなると、コーナー切るのもちょっと怖いのだよw
 というわけで、きのうは海南から白浜とR42走って、潮岬で幕営。きょうは新宮までR42、さらにR168で五條。全部で500kmくらい。

白浜・崎の湯
まだ平日とあってがら空き。崎の湯、というか温泉はすべからくこういう状況で入るに限る。いもの子じゃないんだから。そして好天あ〜んどポカポカの暖かさで、気持ちよいことこの上なし。やっぱり崎の湯は最高。300円払ってもありがたい。
去年の有料化で、これまでの風呂より1段下、つまり波打ち際に風呂ができた。人が少ないのにじゃんじゃん源泉が流れ込んでいて熱いの熱いの。それでもぎゅっとつかるとたまりません。熱くなると、すぐ横の海水に入って冷ますw.あ、こんなことできるのも宮城道雄ばりの秋の海だからです。
ところで同時に入ったおっさん3人、ちゃちゃっとつかって出ていった。気の毒に。こういう温泉は楽しめない人種のようである。バイク乗りになったおかげで、あのようなつまらない人種になれなかったことに感謝。
風呂上がりに前の駐車場のベンチでコーヒーを淹れて至福のとき。こういう自由気ままな楽しみ方ができるのもバイク乗りだからこそと酔狂と二人でさかさま玉子5ケずつ食す。
潮岬
もう11月だというのに暖かくて、寝転がって寿司をつまみながら夜空を見る。星が多すぎて何が何だかわからないくらい。もっとも望楼の芝のところでは自販機の明かりなどがあるし、何といっても海だから、きっと山のほうがもっともっと見えるんだろうけれど、寝転がって真上・天頂を楽に見れるのが最高。しかも暖かい。
潮岬は飛行機の航路になっているらしく、はるか上を点滅する飛行機のライトがひっきりなしに見える。あの高いところを何百人が一団となって動いているのかと思うと不思議な気がする。
夜中におしっこで目が覚めると、下弦の月が耿々と輝いている。その明るさで見える星の数も半減。それでも下弦の月のすぐ右横にオリオン座がはっきりと見える。もうすぐ冬。
新宮・神倉神社
串本を回ると、そこは熊野という世界観の中を走っている気持ちになる。と、同時に中上健次の世界観の中を走っているという気持ちにとらわれて仕方がない。とりわけ新宮まで来るとよけいにそう思ってしまう。
以前、ヒゲと夏の夜に汗をかきかきあがったとんでもない急な石段を、きょうは参道補修のたの土を持って上がって下さいと土が入ったビニール袋を2つ手に這い上がる。昼間に見る新宮の町は、いまはもうないあの臥龍山の端っこもしっかりわかって、やっぱり中上健次にとらわれてしまう。酔狂は中上健次を読んでるわけじゃないからわからないんだろうけど。もっと時間があれば浮き島の森も歩いてみたいけれどそれはこの次にしよう。帰ったら『日輪の翼』あたり読もうかな。
それにしても、2月6日の御燈祭りでこの参道を松明を手にした駈け下りるとは
十津川・神湯
結局、崎の湯、神湯とかつてのフランチャイズ巡り。ボクは夏に行ったから知ってるんだけれど、やっぱりかつての神湯はよかったなぁ。タダだったしw そのタダの神湯はいまは平谷温泉と名前が変り露天はなくなった。なんでも保健所の指導が入ったとか。神湯荘のほうはまだ露天風呂が残っているのだが、底がコンクリートで平らで浅い目というのが、かつての風情を知ってると、なんだかなぁという気がする。まぁ救いは川がすぐ横を流れていることくらいか。
この露天のすぐ横には20m四方の平地があって、どうもキャンプ場として営業しているらしい。だがテント1張り3000円、車1000円、大人500円という。バカにしてないか。しかも入退場時間と《午前2時から午前11時まで》。「午前2時」は「午後2時」のまちがいだろ。しかし旅館が経営するキャンプ場らし過ぎる。だいたいファミリーキャンプがわんさかおしかけたおかげでこんなアフォがまかり通るようになった。そう思うと、神湯ももうおしまいだな。
 やっぱりバイクで走り回ることで、自由を取り戻せそうな気になってくる。それでもバイクで走ってるとね、走ってる間はひとりだし、ヒマだから、いろんなことを考えていけない。あゝ、熱い恋愛がしたい



■2004/11/04 Thu■  写シーン (c)mago [長年日記]

 お疲れ。きのうおとといのツーリングの疲れが残ってる。つうか、筋肉痛^_^;
 喧躁、だよなぁ、喧騒でもないし、喧噪でもない、喧躁から逃げ出すように早々とふとんにもりこんだら、夜中に目が覚めてもそもそ起き出した。このまま朝まで起きてるつもりなのか。
 届いたばかりの、森山大道の『in Paris』というDVDを見る。いきなり、サンジェルマン・デュ・プレの裏通りでスナップして歩いてるシーンが映し出され、笑ってしまう。だっておんなじモノを撮ってるんだもん。はい、というわけで、引っ張り出してきました。森山大道風に。
 DVDのほうは『≒DAIDO』と似たりよったりの編集で、ファンでなかったらつまんないだろうけど、やっぱりボクなんかは掻き立てられるな。部屋に『novembre』の2枚抜き出して貼ってあるんだけれど、その撮影風景なんかも映されている。森山大道初のファッション写真。ホレ、ああいう撮影ってなると、スタイリストやら、レフ板もったスタッフやらがうろうろしてるものだが、そんなのいっさいなしね。4,5人かな。いちおスタイリストはいるんだろうけど、ヘアのセットを直しにしゃしゃり出てきたりしない。ちょっとそこ走ってみてよってくらい。それをカシャカシャとね、RicohのGR21いっぱつで撮ってんだもん。やっぱり憧れてしまいます。ライカがなんぼのもんやねん。
 きのうどこだったかな、キヌのどっかのコメントに「写真」って、ちょっとテレが入って「写し〜ん」なんて書きかけて、をっと「写真」ってのは「写シーン」なんだなって思った。これ、いいな、まさにシーンを写さないで何が写真なんだって。「写シーン(c)mago」 きっともうどこかで、そう言ってるやつはいるんだろうけどねw
 とにかく機材的には「中途半端にいいデジカメ」(と言うたクソガキ出てこい!おまえはとにかく一言よけいなことをぬかし過ぎんじゃ、ヴォケ)だろうが、そうそうバイクにしたって、17万で買うた中古のオフロードであろうが、ボクにとっては自由になるための必要不可欠なアイテムなのだ。ボクが、やれ、ライカだ、F4だ、イレブンのビーエムだなどと言ったところで似合わない。





■2004/11/05 Fri■  『不死鳥』 [長年日記]

 不死鳥*1─フェニックス─ボクはこれまでに何度恋に陥り、そして恋に泣き、それでもまた不死鳥のように蘇ってきたことだろう。そう不死鳥そのものの人生だったのだ。いや、ボクは不死鳥の生き血*2を飲んだ不死鳥そのものなのだ。
 キミがバイバイと手を振るのをぼーっと見ていた。暗闇の向こうにキミが消えていって、初めてさっきのバイバイは本当のバイバイだったのだと気がついた。ふっとため息をひとつ、RX-7を動かし始めた。ポアゾンの香りだけが残るシートを左の掌で撫でてみる。ついさっきまでそこにあったぬくもりももう冷え始めていた。当然のように、その夜、帰りの車にキミからの携帯はなかった。きょうと同じような、あの冬になろうかという日にキミと出会った。長く長く伸びた二人の影が重なりあったときが、二人の恋の始まりだったのだ。
 だぁ〜〜っ、書けません。告白本なんて…でったいに書けそうにありません。
 そうそう、きのうというか、今朝がた未明に見た森山大道のDVDの中で、インタビューに答えて、若いころにはモノ書きになりたいと考えたこともあったけれど、それは無理だということに気がついた。そんなときにカメラと出会ったというふうに答えてたな。最後に、ひとつだけ恋愛小説は書いてみたいねと。そうそうある意味、写真は恋愛なんだと、これはアラーキーも言ってたか。
 ずっと以前にね、まご日記のファンだった彼女が、
「まごちゃん、本を書けばいいのに」
「そんな本なんか書けない」
「日記に小説、書けばいいじゃん」
あ、そだ、こうして毎日毎日書いてるんだったら日記を小説にすればいいのか、じゃー書こかぁ、なんてね、世の中、そんな甘いことおまへんでぇー。それなら世の中にごまんと作家先生がおらっしゃることになる。ネットで石を投げたら作家先生にあたる。
 いや、それはそれとして、森山大道がDVDの中で「ひとつだけ恋愛小説を書いてみたいな」と言ってたのが心に残る。何度恋に陥り、そして恋に泣くことのどこが悪い。恋に恋して、何が悪い。恋してるから、恋してたいからこそ、写真も撮ることができる。旅に出ることもできる。そして大道やアラーキーの写真がそうであるように、生きていくことそのものが恋愛私小説であればいい。いくつになっても、いつまでも恋してたい。


*1 うらまご20041104参照

*2 『火の鳥』と勘違いしているようでつ。アフォ


■2004/11/06 Sat■  リサイクル・セックス [長年日記]

 リサイクル・セックスなんてのがあることをはじめて知った。遅れてるぅ〜 なんとしっかりずばり『リサイクル・セックス』なる本も出版されている。Amazonに《出版社/著者からの内容紹介》とあるので引用しておくと
ごく身近な女性たちの間で、「男友達」や「元彼」との「リサイクル・セックス」をする人が増えています。しかしそれは、セックスをするだけの“セックス・フレンド”とも違うのです。気心が知れていながら、束縛されない割り切った男女関係を望む女性たちは、けして特別な人たちではなく、主婦、キャリア女性、シングル女性と多岐にわたり、悩みながら、あるいは充実した気持ちでリサイクル・セックス生活を続けています。
 うむ、なるほど、恋に悩んだり、泣いたりする必要がないのだ。セフレだと割り切っていようが、どこかに期待してしまってるところがあるのか、逆にフレセ─セックスフレンドがセフレなんだから、フレンドセックスはフレセでいいんじゃないでしょかw─ってのは最初から期待することは終わってしまってるからお気楽なのね。
 哀しいことかもしれないけど、愛だの恋だの、あるいは生殖─生殖のためだけとなるともっと哀しいかもしれない─とは別にセックスしてないと生きてられない動物なんだな、人間ってのは。だから風俗産業が成り立つ。そうするとフレセってのは相手としては合理的だから、リサイクル・セックスが秘かに、─恋愛沙汰じゃないから「しづこころなく花の散るらん」「ものやおもふと人の問ふまで」などとなることもなく、秘かにというのは当たり前か─リサイクル・セックスが結構なされていても不思議じゃない。セックスはセックスでそうしといて、恋愛すればいいのだ。
 ん?「本書は、その実態、メリット、デメリットを伝えつつ、リサイクル・セックス生活からの脱出を提案しています。《出版社/著者からの内容紹介》」 ということは、この本ではこういう実態があるけど、どちらかというと否定的なわけ? ええやんねぇ。肌と肌を密着させてれば、密着させることで済むならば、別にそれでええんちゃうんと思うのは男の身勝手なんでしょか。それが「秘かに」であるならばの話だけれど。
 ということで、ボクはどうだとかは、ヒミツw



■2004/11/07 Sun■  はてなの住所登録に反対の方、何が不満ですか? [長年日記]

 きのうのうらまごにも書いたことだが、こちらにもアップしておく。二度目の人、ごめんなさい。かなり加筆しました。

 11/2に、はてなユーザーに向けて「【重要】はてな登録情報の住所追加、正しい情報登録のお願いにつきまして」のメールが送られた。その中で
「住所登録・正しい情報登録をおこなっていただき、登録ユーザー様の中からランダムに抽出させていただいた150名様に「はてなポイント付き住所確認はがき」を発送いたします。住所登録、正しい情報登録は、はてなにご登録の全ユーザー様におこなっていただきますようお願いいたします。」
 「正しい情報登録」を強制的にとろうという姿勢がだいたい、いけ好かん。そう思うのはボクだけじゃなかったようで、抗議のメールがだいぶ届いたんでしょ。おまけに住所登録のシステムがその時点でセキュリティーかかっていなかったらしい。あわてて、2日後に「はてなプライバシーポリシーの見直し、住所登録スケジュールの延期について」を送ってきよった。不手際を謝罪はしてはいるが、「正しい情報登録」を強制する姿勢は変らず。ここまでは住所登録について、問題はあっても仕方ないかと思えるものだった。が、はてなのホームを見に行ったら、なに?これ

はてなの住所登録に反対の方、何が不満ですか? 「何が不満ですか?」はないでしょ。不手際を謝罪した一方で、こういうスレを立ってるのってどういうことなんですか。ことばを換えて言うと、「(こっちはやな、ネットウヨ退治する言うとんねん。)なんか文句あんの?文句あんねんやったら言うてみぃ」でしょ。

 これらの質問は株式会社はてなのサイドから出たものではないのはわかっている。が、それを《注目アンケート》として掲げているのは株式会社はてなですね。

 大義名分なんかどうでもいいの。無料で使わせていただいているのだから、はいはい。ボク個人的には住所氏名ごときで個人情報流出だなどと騒ぎませんよ。そんなもん、これまでに公の場からなんぼでも流されてしまってる。だが匿名可で無料で利用させてきたもの(無料でも利用させる側にもそれなりのメリットがあるんでしょ)を、いきなりメールひとつで情報を求めるのはどういうつもりなのだ。それなりの手続きがあってしかるべきでしょう。先にきちっと説明をした上で、正しい情報登録を求めたのだったら、ボクは(あくまでボクはです)住所氏名くらい登録してましたよ。ところが、

自分のはてな会員の個人情報が万が一流出した場合は、自分に何ポイント支払われれば納得しますか?

サイテぇー! バカにすんのもエエ加減にしなさい。このような質問をはてなのホームで平気で掲げることができる品性のなさにはほとんどあきれかえるばかり。仮に冗談であったとしても、このようなおもしろくもなんともない低レベルの冗談にはつきあえないね。

 あー、超うざったい。というわけで、テキトーに偽情報登録しときました。郵便番号検索というのがあったので、テキトーに入れたら滋賀県になったってw 氏名は「孫正義」ですw
 どうせ150人の抜き打ちだろ。抜き打ちに当たってバレたらアンラッキーなだけ。バレへん限り使い続けるつもり。バレたらさっさと削除したらエエやんか。なんの未練もないしね、また偽住所で別のidとるだけよ。

 


■2004/11/09 Tue■  マルセル・デュシャンの大ガラスに [長年日記]

 たまには淡々と本日の私事など。
 休みだというのに、朝8時前に目が覚める。ぼーっとしながら、マックの前に座って、虫のしらせか、ロリポ(maggot-p.com)にディスク使用量を見に行って、びっくり仰天。ジャスト200Mに達してるじゃないの。メールサーバーこみこみの200Mだから、メールの送受信にも関わってくる。これは一大事とFTPでゴミファイルの削除。何とか10Mくらい回復したが、それでもまだまだ足りない。が、とにかくヤバい状態は回避したので二度寝。
 次に起きたのが11時半。二度寝のしあわせも束の間、朝トーストを噛りながら、ロリポ鯖の空き容量の回復。ついこないだまで70Mほど空いていたのに急にこんなに逼迫するのは、tDiary、まごまご日記、うらまごをこちらに持ち込んだからだと調べてみると、しかり。うらまごのデータだけで30Mほどもあることが判明。うらまごは、11月になって回復したtDiary.netに戻すことにして、とりあえず、02年,03年分を全て削除。そうしていると、キャサリンとの約束の時間がどんどん迫ってくる。大慌てで風呂に入る。
 キャサリンとAzの3人で北新地に天ぷらを食べに行ったのだが、昼の混んでるだろうときを外したのが不正解ですでに売り切れ。仕方なく、近くのイタ飯に入ったら、なんと Azのバイト先のお客さんがその店の店長。天ぷら食べに来て、仕方なく、こっちに来たのだなどと、おくびにも出さずにしゃべるAzにあきれ返る。イタ飯っても、そこは天下の北新地であります。1500円のパスタランチでスノッブな気分に浸る。
 Azと別れて、堂島にこないだ開館したばかりの国立国際美術館にマルセル・デュシャン展を見に行く。やっぱりむっちゃおもろい。しっかり「階段を降りる裸体」も拝むことができたし、何と言っても「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」aka「大ガラス」。入口にある大きなカラスとちゃいまっせ〜w 9人の男の性器が気化して、上にある女を脱衣させるなどと言われても、さっぱり理解不能ですが(爆) 同時にデュシャン以降としてデュシャンに影響を受けた作品も展示されていて、大ガラスをパクったのも展示されていたのだが、その作者さんには申し訳ないが、その差は歴然。月とスッポン。あっという間の2時間半楽しませてもらいました。そうそう奈良原一高が写真で瀧口修造が解説している『大ガラス』という本、むちゃいい。そりゃ、奈良原一高の写真ですしね。でも18000円。う〜〜む。欲しい....
 キャサリンとお茶。この喫茶店は古くっさい故にお気に入り。だが、ガラガラ。そこへ30になるか、ならぬかの女性が一人でやってきてアイスティーを注文。少し遅れて50過ぎのサラリーマン風の男がやってきて、その女性の席に。むむっ、なにやら怪しからぬ雰囲気が、とキャサリンと目を合わせる。が、こちらの期待していたのとは違って、仕事上の行き違いか、何かで、男のほうは、これより譲歩できない、これで納得行かないなら、出るところに出るより仕方ないなどということを言っている。あゝ、世の中、大変だなぁ。キャサリンもボクもそういう商談にはとんと向いていない。とくにあんなふうにこじれたらねぇ。
 キャサリンと別れて、さぁどうしてタイガースまで行くかと思案のあげく、結局写真しながら歩いて行った。タイガースではいつものようにいつもの3人でうだうだうだと。そしてそのあとゆっくりコーヒーを飲みながら熱く語り合ったのだが、そのことについてはいずれまた。あー、疲れた。



■2004/11/10 Wed■  It Takes A Lot To Laugh, It Takes A Train To Cry * [長年日記]

 先週に潮岬までツーリングに行った話になって、さらに話が新宮になると、中上健次に話が移り、さらには文学、読書の話になった。
 本を読むのにある程度の経験、年齢が必要だという。確かに川端の『雪国』なんかは中学生のころに文学史や、名作として紹介されるのだが、あんなものは中学生の時に読んでもまったくおもしろくもなんともない。
 例えば、『雪国』に「指だけが知っていた」という表現が出てくるのだが、中学生、少なくともボクの中学時代に指がその感触を知っていたなんてまったくないわけで、その表現が何を意味するのかさえわからなかった。わからないままに読んで、やっぱりおもしろくもなんともなかった。いくら最近の中学生はヤリまくってるとはいえ、わかるわけがない。ところが、つい1年ほど前になって読み直してみると、何というものを中学生に読ませるんだと、赤面(大げさ)してしまったのだった。あの情感というのはわからんですよ。
 そこで、《本を読むのにある程度の経験、年齢が必要》ということになるんだけれど、その経験値(年齢、経験などひっくるめて)に応じた捉え方が許されてもいいんじゃないか。確かに、本を読み続けていると、若いころに読んで、そういうふうにしか捉えることができなかった表現が、経験値が上がることによって見えてくるというのもある。だけど、そう読み取ることができなかったからといって、経験値が低いことを責めるわけにはいかないだろ。経験値なんて、定昇と同じようにほっといても上がっていく、つまらないもんだしね。その経験値の低さなりに読み、感じることを認めるべきじゃないか。

 そのことは自分自身の経験値が低かったころにやってきたこと、感じてきたことを認めることになるんじゃないのかな。それらを認めてこそ、これから先を見出していくことができる。いくら、そのことどもが否定してしまいたい、消し去りたいことであっても、認めざるをえない、ほんとは認めたいんだよ。だからこそ、キミは自分に対して誠実でしごくまともなのだ。そして、ボクはそういうふうにしてきたし、これからもそうして行くよ。




■2004/11/13 Sat■  [長年日記]

 ここ数日の間、連日お疲れ。だ、もんで、まご日記書きかけてはアップしないままに寝てしまう日々。書きかけのまご日記、披露したろか。
     ちょっと疲れがたまってきたか、いろいろに^_^; きのうも《ちょっとお疲れかもしれない。暑いんだか、寒いんだか、たぶん暑い。だっていまクルマにタバコを置き忘れてたのに気づいてTシャツで行けるくらいだから。じわっと頭が痛くて、右と左の目の焦点が合わない。》と書き始めて、あとが続かない。
     簡単に言えば、極度に眠いのだ。写真、さがすのにスライドショーにして流していたら、居眠りし始めている。仕事の空き時間の体力回復はマメにしてはいるのだが…w すんなっ!と言いましたね。それでも空き時間に読書にはげんでいると、確実に夢の世界に招じ入れられている。とくに昼飯後はどうにもこうにも、必ずといっていいほど、夢の中へ夢の中へ行ってみたいと思いますよ。
     あ〜、やっぱりきょうもダメダメ、ダメダメよ。そうか、そうか、今まで週に1度くらいは、仕事から帰って、パタンきゅーしてたのに、このごろはそれもしてないな。
 な、な、つまらんだろ。こんなもの人様に読んでいただけますかいなと、きっちり読ませる。だいたい日記なんだからな、オレのだよ、オレの。オレの生活なんだから、おもしろかろうが、つまらなかろうが、ほっといてよ、という傲岸無恥無修正。をっ、シュールだぁ〜。どこがやねんとお思いでしょうが、Fresh WidowはFrench Windowなんだから、それでいいんです。
 ところで、某家で晩ごはんを食いながら、『新・京都迷宮案内』なるテレビをちらっと見ていたのだけれど、橋爪功、 野際陽子、石田あゆみほかと出てる俳優が結構渋い目。京都の町家の居間が映されてんだが、ありゃ『東京物語』だねぇーなどと思いながら眺めてたのだった。

 週が変れば少しはもち直してるかもしれない(希望)。




■2004/11/15 Mon■  アナ兄弟、サオ姉妹 自分勝手は世界を救う [長年日記]

 きのうの日曜、昼間は森山大道と石内都の対談を表現大学に見に行って、夜は夜で京都まで行ってアカレコのライブ。いきなり元気だろ。さてどっちの話から書こうかなw とりあえずパクられまくっとった(注1)ニャーのMCをここでもパクっといたろか。

 ニャーはついこないだかの『華氏911』見たんだってさ。『華氏』については、さらに話があるんだけれど、ここはニャーの名誉のために伏せといたろ。
 さて、『華氏911』を見て、それで個人が何ができるかと考えたんですって。個人の力はあまりに無力で、世界を変えてなどいけるわけがない。戦争を止めることなどヒャク無理。そこで「自分勝手に生きる」ことしかない、という結論に行き着く。
 その「自分勝手」なのだが、ま、それはニャーに限らずボクもそうで、お互い、自分勝手、自己中を素で行く人間なのでよくわかる。つまりですね、自己中なわけで、自分が楽しく生きるためには、自分のすぐ近くにいる人間が凹んでたら、自分も面白くないわけで、少なくとも自分のすぐ近くにいる人間だけはしあわせ(ハッピー)であってほしいと願う。そうすると少なくとも自分は楽しく生きられる。そんなアカの他人のことまで気を回してたら、疲れるばかりなので、すぐ近くにいる人間だけハッピーであればよろし。ところが、そのすぐ近くにいる人間は人間で、自己中にもそのすぐ近くにいる人間がハッピーであったらいいと願えば、それがピトケアン島(注2)じゃないわけで、そうそう簡単に閉じてしまわないで、どんどん広がる。
 どこっと話が変わるけれど、数学の集合を考えるときに、性交渉をもった人間の集合を考えるというのが数学セミナーに掲載されていたらしい。つまりAとBはやったことある。BはCともやったことがある。だがAとCはアカの他人であっても、このA,B,Cはひとつの集合と考える。つまりアナ兄弟、サオ姉妹ってわけです。そうすると、膨大な数のアカの他人が同じ集合に入る。え、ちょいとボク自身を例にとって考えると、ボクが含まれる集合は海を越えてしまうわけで、そのなかにヨン様も含まれる可能性もなきにしにあらず、もちろん糞ブッシュもフセインも含まれるかもしれないのだな。もっともN田クンやH井クンの場合はその集合の要素は1ですが(^_^;) 
 この数学セミナーにも掲載されるくらいの高尚な集合の理論を、上のニャーのMC理論に適用すれば世界は平和になる。つまりみんながみんな自己中になればいい。
 だが、よく考えてみると、A〜Zまで26人を集合の要素とする。とすると、その集合の中で、いくらアナつながりサオつながりといったところで、こいつとは絶対にやりたくない、1000万やると言われてもイヤだ(ボクだったら1000万ならガマンします)という組合せが出てくるだろう。これを上のニャーのMC理論に適用すれば、世界を救うのはやっぱり無理ということになるでしょう。アナ兄弟、サオ姉妹は世界を巣くうだけなのかも。

 さてもうひとつニャーMCですが、先日のアカレコが天王寺の某レストランでライブやったときに、アカレコのお客さんというわけでなく、レストランのお客さんで婆ちゃん3人組がとても喜んでくれたと。一人は78、一人は76、そして「この人、一番若いねんでぇ」と72。話は換って、ニャーのお婆ちゃんが88の米寿で、その婆ちゃんの友達はなんと102歳。そうなると、10や20くらい上だの下だの関係なくなってしまうと。そこでニャーとボクはあと50年頑張って生きような!と固い約束をしたのだった。

    注1) この日のライブはそのあとにテキサス&ノジックスで、酔っぱらった二人は、NYAのMCをパクりまくって笑いをとりまくり。

    注2) うらまご11/01 参照




■2004/11/16 Tue■  森山大道の焼プリン [長年日記]

 さて、おとといのメインエベント=森山大道と石内都の対談の話に戻ります。
 最初に森山大道と石内都がそれぞれに近況や写真について語って、そのあと対談、という形式になってたようなんです。まずは森山大道からなんですけどね、あとの石内都がこれまでの写真をコンパクトにまとめたDVD(別の機会に製作したものらしいが)を中心に話したのに、大道のほうは先日出たばかりの『森山大道 in Paris』を流しはするんだけれど、さっぱり自分の写真について語らない。DVDの中では「くだくだと」いっぱい喋ってるのに、実際目の前にいる大道先生はなかなか語らない。それどころか、「この(DVDを製作した)人は、たくさん喋らせて…(困ったモンだわ)」と言いながら、DVDの中で自分が喋っているパートは「流してください」と早送りさせる。そして大竹伸郎や、荒木経惟が森山大道について語ってるパートだけ、大道自身もぼおーっと眺めてる。だから、とてもつまらない。目の前に森山大道がいるのに、森山大道自身が動き出さないのだよ。とくにそのDVDはボクなんかつい10日ほど前に見たばかりで、誰が何を言ったか、結構頭に残ってたから。そんなふうに最初の3-40分は退屈に過ぎていく。ボクはっていうと、たった2メートルの目と鼻の先にいるから、大道の観察に専念する。大道はしきりにミネラルウォーターのペットボトルからコップに1cmばかりちびちび入れては飲んでいるばかりで、こんなところに座らされて、何をしゃべったらいいんだというような、まるで落ち着きのない子ども。

 ところが、この動かない大道というのが、とんでもない逆説になってしまってんだよ。べらべらべらべら、かの大道先生が自らこれは…などと言い出す写真家だったら、きっとボクはこんなに入れ込まなかっただろう。それをまともに、本人を目の前にして見せつけられた、というわけ。
 やっと、石内都にバトンタッチされて、彼女のほうは理路整然と喋っていくから、森山大道の情けなさはよけいにひき立つ。ときおり、森山大道にも話を振りながら、それにぼそぼそっと答える大道クン。
 対談になっても、どちらかというと石内都のペースで進む。が、やっとその場の雰囲気に慣れた子どもように、ぽつぽつと喋り始める。
都「あれはどこでした?深瀬(昌久)さんのとこでした? この人、寝るときにパジャマ着ないんですよ」
大道「あんなもの着れますか? さぁ寝ましょうってときに」
 これには笑った。ボクもパジャマなんか着ないしね。面倒くさいだろ。せっかく眠くなってるのに、きっちりパジャマに着替えて、しかり歯磨きを済ませて、などと儀式なんですか。遊び疲れた子どものようにぱたんと寝てしまいたい。
 質問タイーム。表現大学の受講生(まだ若いっ!)「お二人とも、ボクの父親や母親と同じような歳なのですが、うちの親は夜になると寝転がって、お菓子を食べながらテレビを見てます。お二人は、テレビは見られますか。おやつは食べられますか」
 これに答えて、大道先生言ってくれちゃった。「コンビニばかりで生活してるんでね、焼きプリンが好きだな。冷蔵庫に4つ、5つ、いつも入ってるよ」
 ボクも質問したのだw 「(田代)まさしみたいなアホが出てきて困らないですか」となんという質問じゃ。そしたらやっぱり大道先生も、最近は控えてるという。新宿でも交番にもしょっぴかれたことあるらしい。そこでかの横須賀でやった手、撮影済みフィルムとさらのフィルムをすり替えようとしたところ、ポリに見つかって、せっかく撮った1本がパァーになったと。やっぱりそうなのか、女の子のお尻ばかり写すの止めたほうがいいなw
 書き出したら、キリがない。やっぱり生の森山大道に接することができてよかった、としかいまは言いようがない。ほかにもいろいろ、これはと思わされるところがたくさんあって、それはそれでまたそのうちに小出しにすることにして、これを書きながら思ったこと。上に書いたパジャマね、ぱたんとそのまま寝てしまうまで子どもは遊び続ける。森山大道という人は、それと同じように、ぱたんと倒れるまで子どものように撮り続ける人なんだ、子ども(少年)の心を忘れないで死ぬまで撮り続ける人なんだと、ますます憧れてしまったのだった。







■2004/11/17 Wed■  「キズアト」を撮り続ける石内都さんへ [長年日記]

えー、いま焼きプリン食いながらこれ書いてますw(11/17参照) というわけで、石内都編
森山大道が「焼きプリン」と答えた─あ、それで思い出した。こんな記事があった─質問で、石内都は「赤ワインにチーズとオリーブ」と答えておった。
 森山大道が若き日、『絶唱横須賀ストーリー』('77)頃の石内都について、《「そんなに突っ張っていたらツライだろ?石内クン」と思わずそう云ってみたくなる在りようである。》と。その心意気やいまだ失われずというのが「赤ワインにチーズとオリーブ」にみてとれた。
 それくらいでなくっちゃ、女ひとりでやってけないんだろうな。どこまでも突っ張ってないと。女というのは、不便なような便利なような不便なような便利なような不便なような、どっちやねん。つまるところ、「わたし写真家なんて止めるワ」といつだって簡単に投げ出してしまえるんじゃないか。なんてことを書いたら、女の人に叱責されそうだけれど、(メタファーとしての)実家に戻らせてもらえるの。実際に、大道との出会いになった『絶唱横須賀ストーリー』の個展を開くにあたって、「これで写真家を止めようと考えていた」という。が、「『絶唱横須賀ストーリー』が次の『アパートメント』を呼び、『アパートメント』がその次の『連夜の街』を呼んだ」と彼女自身が語ったように、止めるわけにいかなくなった。
 思うに、最初から写真家を止める気なんてなかったんじゃないですか?石内さん。それは後からついてくるもので、その中にあっては、突っ張ってどこまでも走ろうと考えるのが自然だし、そのことを後から「これで写真家を止めようと考えていた」というのは、あなた一流の突っ張りですね。好きです。
 そうしてその最初の三部作をも、いま進行しつつある《SCARS=キズアト》のなかに包含して行こうというのも突っ張りなんでしょ。そのキズアトを大事に自分のものにしていこうという姿勢がすごく好きです。この対談以前に、ボクは《女であるからこその醒めた視点でとらえられた「傷」を突きつけられては「センチメンタル」な男に勝ち目はない。それ以前に勝負にならない、悔しささえ湧き起こってこない。モノクロームの怜悧な刃物。》と書いたとおりに、あなたという女をこの対談で垣間見させてくれたのでした。
 ボクですか、あなたに『横須賀Again』にサインしていただきながら、「『モノクローム』のお袖さんの話には心が震えました」とだけ伝えた者です。

 あらら、いつの間にか、石内都さんへの公開メールになってしまった。(初めのほうは、「さん」もつけてませんねぇ(^◇^;))








■2004/11/19 Fri■  「そんなに思い悩んでいたらツライだろ?春樹クン」 [長年日記]

 「最近、しんどそうだね」といきなり言われて困った。いや、この1週間ほど『海辺のカフカ』をずっと読んでたから、しんどいとかいうよりも、村上春樹の苦渋がのりうつってきたのか。それが顔に出てたのかね。確かに、しんどいと言われればしんどいし、そう、本を読みながらでも、すうっと寝てしまってる。きょうやっとこさ読み終わったのだが、ラスト近くのクライマックスで寝てしまってんだから、どうなってんのだと自分で言いたいよ。『海辺のカフカ』が退屈極まりないのならいざ知らずね、ボクにしては結構ハイペースで読んでたんだよ。だから疲れるのかい。
 ちょっと前に、誰だったかな、話していて「春樹は真面目だから」という話になった。確かにね、内に向かう思索というといいのか、それがほとんど間断なく出てくるから、読んでるほうも疲れます。森山大道のマネして言ってみると「そんなに思い悩んでいたらツライだろ?春樹クン」
 ところが春樹ファンにはそれがたまらないんだろうな。作者自身が思い悩んで書き記しているような小説なんて、ここ最近、ほとんどぶちあたらないもんね。ははは、と笑って、はい楽しゅうございましたで、さっさとブックオフに持ち込まれるような本ばっかりの気がする。こんなふうに作者と格闘してみるのも、疲れはするけれど、スポーツのあとの汗のような快感がある。
 『ノルウェーの森』あたりまではだーっと一気に読んだけれど、そのあとずっと読んでなかったから、またちょっとはまってみようかな。『ねじまき鳥』だってすぐに買ったのにツン読にしたままだし。

 ところで、「ミネラル・ウォーターを沸かし。ティーバックのカモミール茶を飲む。」ってね、どうして「お湯を沸かして、ティーバックの日東紅茶を飲む」じゃダメなんですか? こそばいんだよ。




■2004/11/20 Sat■  四畳半襖の下張 [長年日記]

 久しぶりに寄ったブクオフで美学館という出版社から出されていた青木信光編の『発禁図書』を見つけた。へ、へ、へ100円よ、それが1,6,8巻の3冊も。パッと目に付いたのが第一巻─《壹號館》と旧字で表わされてる─のが『四畳半襖の下張』。永井荷風がこの原稿を質草に質入れしたのが流れてしまったといういわく付き。ぱらぱらと開けてみたら、文章は半分くらいで、あとの半分のページがエエんだわぁぁぁぁ。
 どういいかというと、いまでこそ、ばんばん出回っているけど、40年近く前には、ビデオなんてもちろんなかったわけで、ブルーフィルムという8mmなんかが闇で流れていて、親の世代なんかはこっそり集まって映写会をやったそうよ。ブルーフィルムはめったに手に入らないし、第一、映写機がそうそうどこの家にもあったわけじゃない。そこでもうちょっと簡単に手に入ったらしいのが、エロ写真。そんなエロ写真を初めて見たときには、さすがにボクもビックリしたな。モロ、入れてんだもん。つて、いまならネットでなんぼでも手に入りますが。
 そのエロ写真の類─たぶん、いまの若い子らでは、この写真では抜けないでしょw─と、戦後のカストリ雑誌なんかに掲載されていた挿し絵が、むちゃ雰囲気なんだから、いやほんとたまりませんでつよ。『四畳半襖の下張』は大正の初め頃だから、それらの写真や挿し絵とはだいぶ時代がずれてんだろうけど、いかがわしき香りプンプン。
 さて、『四畳半襖の下張』です。大学の頃にちらっと読んだことあったけど、はは、抜けませんでしたw んで、さっきまた読んでみたけど抜けませんでしたw 抜けるわけないっちゅうねん。いまの時代だと当たり前だろって話でつね。
 女を買いに行って、あ、そうそう昔の郭では女は全裸にならないんですよ。ちゃんと肌襦袢だけは身に纏ってるわけです。それを手練手管で女をよがらせて、電灯の下ですっぽんぽんにして、騎乗位で下から裸を見上げて、しまいにゃ69までやらかしたって話ね。
おのれも女の__へ顔をさし入れ、先づ_の先にて上の方の__を_め、折々_をまるめて__く_れては又上の方を__てやると、女は忽ちうつゝに__り始め、_の中なる男の__、_にて根本を堅くしめては__ながら_の先にて__を弄ぶ。
 ほれ、抜いてみれ。_は伏せ字になっとんのよ。誰か復元してよw をっと、

《もとより麗々しう世に示すべきものにあらず妄に門外に散出して作者の心に背くことなかれといふは。》



■2004/11/21 Sun■  小春日和に背を向けて発禁図書に耽る [長年日記]

「ぢやかまわずおやり………」
と云つてグチャ/\ヌ_/\淫_一杯流した。_門を突き上げてフン/\ハア/\グチヤ/\ピ_ヤ/\ツ_ポ/\/\フ_ン/\と重なりて大さはぎ、男の鼻息は時にひどく今にも_が行きそうな息づかい。
「たまらない。い_よ/\、それ/\」
と云へば女は下からぐつと持ち上げ足をしめ付けながら、
「フン/\ハア/\い_/\いゝゝゝ………」
ド_/\/\ヌ_/\/\と_をやつてしまつた。

注:「/\」は縦書きで繰り返しを表わす「く」を縦に伸ばしたような表記。

いきなりすんませんねぇ。きのう買った『発禁図書』の『仙太郎日記』からの引用でつ。この伏せ字(_部分)にあまりに感動したのでつい。
 『発禁図書』に収録されてるのがほとんどこんなんでつワ。困ったなぁ(汁) ほとんど秘家本として出されたもので、《フン/\ハア/\グチヤ/\ピ_ヤ/\ツ_ポ/\/\フ_ン/\》、今でいうとエロ漫画を彷彿とさせますですよ。
 そしてほとんどがノーマルなセックス描写で変態性はほとんどなし。ちゅうか、当時としては十分に変態だったのかもしれなくて、いまがあまりにも容易に入手しやすくなって、そりゃ厨房でさえ、ちょいとネットをかじれば、ブルーフィルム以上のシロモノが手に入る。それがセックスにおいてエエことなのか由々しきことなのか。とにかくアダルトビデオの通りにしないと気が済まないという話をよう聞くもんね。性交以前にフェラチオがあるような時代だもん。フェラチオなんてSM的な行為のように感じて育ったボクなんかにとっては、う〜ん、どうなんやろね。
 そんなふうにどんどん過激になっていく一方で、その時代の流れに取り残されて、現実の女をまともに相手にできない男も増えていることは事実だね。


■2004/11/23 Tue■  青い月曜日(火曜日だというのに) [長年日記]

 『青い月曜日』というと開高健を思い出すのだが、もう30年近く前に読んだので、ヒョウソになった爪を切るのが怖いという女が死ぬのは怖くないという話しか思い出せない。この女のモデルは、のちに開高健の奥さんになる女だったという。ひょっとして、開高健でいちばん好きだったのはこの『青い月曜日』かもしれない。忘れてしまってるくせに。
 その『青い月曜日』と、ちょうどブルースばっかり聞いて頃なので、T-Bone Walkerの"Stormy Monday Blues"につながってしまう。金曜日には鷹が飛ぶというやつね。John Lee Hookerのもろ"Blue Monday"にはつながらないというのも変なんだけど、それは単純にT-Bone Walkerのレコードを持ってただけ。その『青い月曜日』を読みながら、かけてたんでしょ。音楽流しながら、本を読むというのが、その頃のボクのひきこもり生活wだったから。
 なんにしろ、きのう月曜はなぁーんもしないまま、お仕事だけ。夜には寒くて眠くて、さっさと寝てしまった。さてきょう火曜日は小春日和だし

CALL IT STORMY MONDAY
BUT TUESDAY IS JUST AS BAD



■2004/11/24 Wed■  目方で売ってます [長年日記]

 きのう日本橋を歩いていると5丁目からちょっと上がったところ、かつてパーツとかサマリーとかを売っていた店が巨大な中古ビデオ屋になっている。店の中では店の名前を連呼してたが忘れた。とにかく何万本もの中古ビデオがあるという。お宝もあると、ぎゃんぎゃん店内放送がうるさい。陳列はもうむちゃくちゃで、あるだけの中古ビデオを支離滅裂に並べました、という雰囲気で、この中から探すのかいと思うと気が滅入る。が、1本200円というのはskipの半額になる火曜日の1週間レンタルと同じ値段だと気を取り直してざぁーっとビデオの並んだ棚を斜めに見ていく。
 最初に、これはと手に取ったのが、フェリーニの『白い酋長』。こんなの見たことも聞いたこともないぞ、たぶん買ってもなかなか見ようとしないんだろうなと棚に戻してしまった。いま、sllcinema.netで調べたら日本では劇場未公開じゃないですか。「最高に楽しいフェリーニ、初期喜劇の傑作。彼の持ち味のすべて−−快活なおしゃべりに、子供じみた幻想性、素朴なドタバタ趣味に、宗教的モチーフ、そしてそれらが醸し出す透明な叙情−−がバランスよく配され、忙しい現代にも通用する、一服の清涼剤的作品である。」などと書かれてるではないですか。ちーっ、しまった。200円だろ、騙されても買っておくんだったな。いや、そのときも、あとで何本か、かごに入れてから、レンタルしたと考えりゃいいのだということに気がついて、あったと思しき棚をもう一度探したのだ。ところが、このあたりというだけでどこかだかさっぱりわからない。かくしてお宝は消えた。
 実際、2本、3本と手にし始めると、レンタル料金(TSUTAYAより安い!)で、ほとんどがレンタル落ちとはいえ、返却を気にしなくてもいいんだと思うと、初めてブクオフに行ったときのような気分になって、気がつけば9本も買い込んでた(何を買い込んだかはきのうのうらまご参照)。ボクの前にレジに並んでたヤツなんて30本だ。しかし選び出すのはほんと人それぞれです。たぶん、前のヤツの30本はボクは見ないだろうし、ボクの9本も彼は見ないだろう。
 ところでその店に並んでるのがほとんどすべてがレンタル落ち。つまりね、レンタルビデオ屋に行ったら、棚一面に、『ハリポタ』とか並んでるでしょ。それがイヤでTSUTAYAなんかにはほとんど行かない。その時期が終わったら、それらが大量に放出される。店ではいてしまうのもあるけれど、それらが集められてこのたったの200円という値段で売られる。その山のような在庫を見ていると、映画という文化も大量消費されてしまう文化になったのだなと哀しくなる。ひとつひとつの映画に多くの人間が携わって、クランクアップごとにパーティーなんかもやっちゃったりしたはずなのに、こんなふうに目方で売られるようになってしまうのはなんとも哀しい。
 そんな中で、『甘い生活』を見つけてしまうと、ただただ愛おしくなってね。





■2004/11/25 Thu■  「酒と泪と男と女」だなんて [長年日記]

 クルマで音流すの面倒でFMかけてたら、あっちもこっちもそっちもJ-POPだらけ。ある瞬間なんか、ウザイと思って違う局にかえたら同じ曲がかかってた。なんぼいま流行ってるからってね。
 制作と編成は仲悪いってね。いくらDJが自分のネタを流そうとしても、そんなんじゃ売れないと横槍を入れてくるという話を聞いた。そう言ってたDJさんも、かつてはリックジェームス、どかぁーんとかけとったのに、いまや、J-POPしかかけなくなってやがんの。それも売れ筋ばっかり。
 なにがなんでも、J-POPがつまらんというわけではないけど、そんなのを歌にせんでもいいでしょうと思ってしまうのばっかり。
 河島英五な、そう、きのう、河島英五がFMで流れてきたんだよ。そんなに嫌いならさっさと換えればよかったんだけど。彼の歌が好きな人間は多いけど、ボクは昔から嫌いだった。もう30年近くも前の曲だけれど、「何かいいことないかな」と、延々、♪〜なにかいいことないかな〜の繰り返し。確かにこの曲が出てきたときは、時代的に一種の閉塞感のようなものがあったが、♪〜なにかいいことないかな〜と、繰り返したところで、何もいいことなんかあるわきゃないだろ。そんなことを喚いているヒマがあったら、自分で動いて、いいことを探せよと思ったのだ。それから何年か経って、名曲中の名曲と言われる「酒と泪と男と女」。いま気がついた涙じゃなくて泪ですか。この言葉の使い方は、生理的にイヤだな。別に河島英五に食ってかかろうって気はないんだけど、酒なんかほとんど飲まないボクには酒飲みの気持ちなんか聞きたくないです。

 ♪〜 またひとつ男のずるさが見えてきた・・・・
    オレは男・・・

 ちゃんと先に逃げ場をつくっておいて、自分は男なのだといういやらしさ。そういうグチグチしたところがなんともボクには耐えられない。
 とにかく、J-POPと括られる、それも男の歌ってのはほとんどが、それを言ったらダメでしょという歌ばかり。そのレベルでしか歌ってないんだよ。わかりやす過ぎる。だからよけいに流行るんだけれど、きょうも流れていたいまのJ-POPなんて、ちらちらっと聞き取れる言葉の端くれが全くもって詩的じゃない。歌詞に意味を持たせよう持たせようとするから、ますます陳腐になっていく。歌の中でまでそんなグチグチは聞いてたくないのだ。女が

 ♪〜 いまは12時、わたしは5分
    あとに残るは雨の匂い

と歌ってるというのに、なんとも情けないよ、まったく。




■2004/11/26 Fri■  無差別攻撃 [長年日記]

 高梨豊の『都の貌』という写真集を見て過ごす。まず、見開きでA2のでかさに圧倒される。そしてそこに切り取られた写真のストイックさに押しつぶされる。浅草六区、勝鬨橋、新橋ガード下など、裏表紙に記された飯沢耕太郎のことばを引用すると
《彼もまた、ぼくと同じような怒り(と哀しみ)を抱えこんで、おそらく人類がこれまで経験してこなかったような都市の変貌に立ち合っているような気がしてくる。彼の撮影のスタイルは、感情の表出を抑えて、物や風景に静かに寄り添うものであるが、それだけに逆に怒りや哀しみは深く沈潜しているように思える。》
 「人類がこれまで経験してこなかったような」とはいささか大げさ過ぎると思えるけれど、確かに変貌は進む。そして「怒りや哀しみ」に起因するわけでもなく、単に写真を撮るものの欲望として、それを記録しておきたいと思うのは当然なのだ。以前にも書いたように、ボクも自分が写した街が、とり壊されて、いまはもうないという経験を幾度もしている。写真を撮ったから壊されてしまったのじゃないかと思えるくらいに変貌する。それはひとりの人間の「怒りや哀しみ」などで御しきれるものじゃない。10年ほど前に、ボクが生まれ育った家が壊された。その瞬間に立ち合っていたのに、1ショットさえ撮ることはなかった。撮ろうという気などはなからなかった。そんな欲望なんて湧き起こりもしなかった。
 もし感情を表に出して撮られた写真なら、これほどのインパクトはないだろう。怒りや哀しみを表に出したとき、イジイジとしたとんでもない絵になってしまうことは写真に限ったことではない。そんなことはよくわかってる。だからそんな写真なんか見たくもない。

 ページをめくっていくにつれて、それらの写真がすべて夜ということに気づく。ひたすらパリの街を写して歩いたアジェの姿に高梨豊の後ろ姿が重なる。アジェをシュールの文脈の中にとり込みたかった─それはアジェ自身によって拒否されたが─理由が少しわかった気がする。決してレトロ趣味や怒りじゃない。存在そのものをとらえているからなのだろう。そういう意味で、夜はその存在を際立たせる。その影に引かれている自分に気づく。そういえば、春樹の『海辺のカフカ』のナカタさんの影は半分の濃さでしかなかった。

 荒木経惟の『東京夏物語』 一転、荒木経惟の饒舌さに圧倒される。圧倒されっぱなしだな。こちらは車に乗って、車の中から、カメラビーム(視線)の無差別攻撃をやらかしまくったような。そういえばボク自身の視線に迷いが生じてきていたことに気づいてしまったよ。
 そんなこんなで、またシャッターを押しまくろうとしている自分がいる。






■2004/11/27 Sat■  人妻(27歳)と蟹にむしゃぶりつきながら、房宿に囚らえられる [長年日記]

 ボクの年中行事となった久美浜の蟹カニツアー。今年は人妻(27歳)と二人でしっぽりと。
 蟹を囲炉裏の炭で焼きながら、下戸二人が、熱燗とっくりのくびつまんで、もういっぱいいかがなんて妙にイロっぽいね…なんて歌うてるばやいですか。はい、刺身、焼き蟹、蟹シャブと、もう蟹の顔も見たくねぇってくらい。がっつり、まだ口を開けたら、蟹が這い出してきそうなくらい、ぐふっ。やっぱ、フグよりカニだ、カニ。

 さて、ふつふつと煮える鍋をはさんで、人妻(27歳)が、「まごちゃん注1、生年月日いつ?」と唐突に聞く。あ、あのねぇ、こうして二人で久美浜くんだりまでカニを食いに来る仲なんだから、しっかりボクの誕生日くらいチェックしとけよと思いながら
「8月17日」と答えると
「生年月日と言ってるだろ(ばぁたれ)」
そしてかしゃかしゃと携帯をいじって、ほどなく
「まごちゃんはねぇ、しつしゅく。部屋の意味の「しつ」にやどの、室宿」
 そういう暦とか方位とかはボクのばあちゃんが好きで、「おまえはことしはしろくもくせだから気ぃつけな」と言うのに「同じ学年におるのはみなおんなじ運勢かい」と難癖つけて、ほとんど信じてなかった。西洋占星術は太陽の位置がによるのだが、この宿曜というのは月の位置によるという。

「室宿の人間はねぇ、《実行力と状況判断に優れた軍師の星だ。自分のことばかりに夢中で、他人を慮ることがないので、社交的なわりに親友は少ない。》注2
「うっ、あ、あたってるやんか」
 宿曜の相性があって、それを対人関係の傾向と対策として見ていくといいとか、人妻(27歳)は言う。
「ちなみにわたしはぼうしゅくで、乳房のぼうに宿な。室宿の男、ずっとさがしてたんよ。こんなとこにおったか、ふふふふ」

 人妻(27歳)のたくみなMCに、疑心暗鬼だったボクもついつい納得させられてしまう。こうして蟹の鍋をふたりっきりでつついているのも、室宿と房宿だからこそなのか。ネットで検索かけて調べてしまったよ。
 Pちゃんは女宿で、室宿と女宿は、うっ、そういうことだったのだ(;´Д`A ``` 

  • 注1:人妻(27歳)はボクのことを、「まごちゃん」とは呼ばない。
  • 注2:人妻(27歳)が言った言い回しはちょっと異っていた。覚えてられわけないので、《》部分は27宿の象意による。このサイトに互いの宿曜の相性も記されている。


■2004/11/28 Sun■  会話のない時間が心地よかったりして [長年日記]

 夜に真っ暗ないなか道を走りながら、となりにいる女としばし会話が途切れる。寝てしまったのかなと思っていると、
「なかないい沈黙だね」
とふっとまたしゃべり始める。
 かつて沈黙であることが怖くて、必死に何かを語ろうとことばを探していたことがある。何かを語りかけなければこの関係は壊れてしまいそうでどうでもいいようなことばかりをしゃべり続けていた。

「ねぇ、愛してると言ってよ」「愛してる」「ねぇ、わたしのこと好き?」「好き」「えっちするだけ」「ちがうよ」「川島クンって変だと思わない」「うん、そういえば変だな」「結婚しようって言う人がいるんだよ」「そうなんだ」「どんな人か気にならない」「気になると言えば気になるけど」「わたしね」「うん」「スピッツの新しい曲って何だったっけ」「正夢?」「そうそう。正夢ね、あたしね、きのう怖い夢、見ちゃって」「ふぅーん」「追いかけられるのね」「追いかけられるんだ」「そうなの」「うん」「今度さ、日曜にね」「次の日曜って5日だった?」「うん、確か5日だったと思う」「うん」「その次が12日だよね」「うん」「クリスマス、もうすぐだね」「どこか行くの?」「行かない、どこへも。またスキーに行っちゃうの」「うん」「そうなんだ」「うん」「おみやげ買ってきてね」「おみやげは笑顔でいいの、お父さん」「なに、それ?」「あ、うん」

 何の約束があったわけでもないのに、何もしゃべらくてもいいような関係ができてしまった。気まずい沈黙の時間が過ぎる相手と、心地よい沈黙の時間を楽しめる相手、話すことはどちらも愚につかないようなことなのに、そんな差はどこからできてしまったんだろう。ふっと思った。いくらことばを費やしたところで愛など出てこないところには出てこない。

「黙ってないで何とか言ったらどうなのよ」






■2004/11/30 Tue■  偏屈なる読書 [長年日記]

 きのうの晩は何をするにもリキが入らず、だらぁーんと過ごして、さっさと寝てしまう。
 と、本日のうらまごと同じ書き出しで、というのも、きょうもだらぁーんと全くもって弛緩しておるよ。だいたい今月もなんだかんだと飛ばしすぎ。別に何をしてるってわけでもないんだけど。ビデオだって寒いから、さっぱり見てないし、見てもまごれびゅに書いてないしね。そのくせ、エンピツの投票だけは確実に今月も150票以上あって、これは過去ログから投票できるように仕組んであるせい。まともにアップしてる人に申し訳ない。
 つまらない話のついでに、今月の中旬は『海辺のカフカ』読んでたんですよ。いわゆる純文学ってやつですね。ええーっと、名前が全然思い出せないけど、本屋なんかにどっと並んでる、大衆文学とかで括ればいいのかな、あ、例えば藤沢周平ね、藤沢周じゃなくて周平のほうね、そういう類ってのは読めば面白いらしいんだけど、まったく読む気がしない。本と格闘するという感じがしないのね。ハリウッド見ないのと同じかなぁ。本、読んだり、映画見たりして疲れないと、満足できない。なんかようわからん、おもしろいんだか、どうかもようわからんけど、とにかく疲れたというのでないとねぇ。エロいのは別ですが(笑)
 村上春樹に話を戻すと、もう20年近く前だったかな、『ノルウェーの森』が出たあとだったから、10数年前か。だいたい春樹なんて名前がヤワそうで好きじゃなかった(言いがかりです)。だから無視してた。それがなにかのきっかけで、『ピンボール』を読んですっかりはまって、その時点までに出ていた一部の短編を除いて、一気に読んでしまった。だいたい昔からそういう読み方ばっかりしてるなぁ。『世界の終り』ではラストで、「ライク・ア・ローリングストーン」で消えてしまうでしょ。読み終わって、すぐにふとんから出て行って「ライク・ア・〜」を回してね、けっこうミーハー。いまでも『世界の終り』がいちばん好き。そのとき最後に読んだのが『ノルウェーの森』で、それでイヤになった。『ノルウェーの森』が良くなかったというのでなくて、飽きた。それからふっつりと春樹には見向きもしなくなった。『ねじまき鳥』はさすがにこれは読もうかと買い込んだのに、以後、10年ほど本棚の中で眠っていた。
 前のときほどの勢いはないけれど、とにかく来月は『ねじまき鳥』だな。その『ねじまき鳥』を本棚の奥から探し出すのがもう大変だった。実は本棚が5つもあるんだけれど、そのどれもが二重に詰め込まれていて、つまり本の奥にまた本が収まっている。10年も寝てる本だから、後ろ側になってしまっていて、手前の本を少しずつ引っ張り出して探さないといけない。やっとのことで見つけたと思ったら、それは第3巻で、その本棚には残り2冊はない。別の本棚の奥から次に出てきたのが第2巻。そんなもんですね。第1巻から出てきたら、とりあえず読み始めれるのに。これなら買ってツン読にしとかないで、読みたいときにブクオフに走るほうが早いし安上がりかもしれない。
 そんなふうに本を探していると、あ、これも読みたいってのが出てきたり、あ、これはちゃんと買ってたんだというのまで。そのどれもが、きっと格闘しないと読めないようなのばかり。死ぬまでにこいつらをやっつけられるだろうか、きっと無理でしょう。だから、いくら薦められようが、ただおもしろいよって本はまず読まないだろうな。
 


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