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うらまご/まごまご日記/まごっと/まごれびゅ/P-FUNK/maggot

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■2003/09/01 Mon■  欧羅巴食慾綺譚(4) [長年日記]

 日本のイタ飯のウソ。スパゲッティはスプーンの上でフォークをくるくる回してフォークに巻き付けて食す。なんてことをまことしやかに言うたのは誰だ? イタリアでスパゲッティを注文してもスプーンなんか出てきやしませんよ。あ〜ん、それは大衆店だからそうで例えば、ラーメンにレンゲがついてくるか、どうかだって。はい、はい、ブルジョワジーしか行かないような超高級なレストランではそうかもしれん。が、所詮、ボクらには一生縁がないから、スパゲッティはフォークで犬食いでいいのだと強く確信した。だいたい、食事の間、わいわいがやがやどりゃああが当たり前の大衆レストランでお行儀もへったくれもあったもんじゃない。
 もうひとつ、パスタは前菜のつぎに出てきて、そのあと魚、肉とフルコースが出てくる。なんて、なんぼ連中が大食漢だからといって、誰もそんな食事はしとらんのだよ。ほんま見てきたようなウソばかり。ひたすら1つのプレートでひたすらワインを飲んでわいわいがやがやどりゃああああ。だいたいやね、そんな食事ばかりしとったら、お金がもたんでしょ。つつましく、ピザにコーラだとか、そこらは日本と大差ない。どない逆立ちしたってブルジョワジーにはなれんのだから、そのような真似はしなくてよろし。
 が、しかし連中の大食いときたらやはり大食いで、ローマ、バルセロナはなんとか耐えきった。ちょうど一週間経って、そろそろ腹が疲れてきたころにマドリッドで、この大食いのための大盛りに捕まってしまった。

 まずはカサ・ボティンの子豚の丸焼き。あんなもの、でぇ〜んと出てきたら食いきれるはずがないし、鯛や平目の姿造りは慣れというもので平気だが、豚のつぶらな瞳が恨めしげにこっちを見てるというのは耐えられない。ところがうまくしたもので、そのような人のために子豚の丸焼きを切り分けたものというのがメニューにあって、これなら何とかなると、ガーリックスープのあとに、サラダと一緒に注文。それも用心して一人前だけ。さてやって来ました、子豚の丸焼き。さすがに有名店カサ・ボティン、心得たもので、一人前をさらに2つの皿に取り分けてもってきてくれた。どこが頭だか、鼻だか、お尻だかわかりません。いざ、と食し始めると、皮はぱりっとしていて、脂はしっかり焼き込んでいるせいで落ちていてなかなか淡泊、美味。北京ダックよりずっと美味しい。が、北京ダックは一人あたりスライスにして2,3枚という程度であるのに、子豚の丸焼きは、切り分けて、さらに取り分けたところで、まだ肉の塊という趣を十分に残しているのだ。ボクらはサラダも注文してたからいいものの、少し離れたテーブルの退屈そうな日本人二人は、食えども食えども減らない単調な美味にいやけがさしてますます退屈そう。ボクらとて途中から飽きてきた。それにいくら脂をこんがりと焼いて落としてしまっているとはいえ、さすがに豚の皮下脂肪で口の中はべっとり。それでも残したらもったいないと、マーニャの分もたいらげたのだった。帰ってから聞いた話では、あれは一人前を3,4人で分けたらちょうどよかったと。じゃあ、二人ならどうすりゃいいのだよっ。もっと量を減らしてくれい。
 次の日、その豚の丸焼きがまだ胃の中に残っているような状態で、当然お昼は抜き。プラドー見るのに忙しかったせいもあるんだけどね。パエリアはもうわかってしまっているから、どっかバールでちょちょっと下戸の肴荒しでもやろうと思っていたんだけど、適当なバールを探すのもめんどくさかったので、これも30年前のマドリッドで食ったパエリア専門のバラッカへ。30年前の時は何のパエリアを食ったんだろう。貧乏旅行のわりには贅沢したもんだ。決して高い店ではないけれど、安い店というわけでもない。その頃に比べると少しは金持ちになっているので、いきおい《王妃のパエリア》なんぞを注文。直径30cmはあるだろうパエリア鍋にでぇ〜んと3種類の海老にムール貝ものって、もちろんアサリも。一見、豪華であります。ところが、これも半分過ぎたあたりから飽きてきた。オリーブオイルでこてこてだしね、シーフードの味ばかり単調。一瞬、ニューヨークの恐怖のシーフードパスタが甦ってきた。あれに匹敵するくらい、食っても食っても減らないという感じ。それでもさすがにおこげをへつりはしたけれど、約1/3残してギブアップ。これも帰ってから聞いた話では、家族4人でちょうどよかったとか、マーニャと二人ではボクの負担がきついのだよ。あー、それとやっぱり30年前に比べれば、年のせいでぐっと小食になったんかもな。しかし、大阪のスペ飯屋のパエリアは、高い金とるくせに、ゑぅ、もうないの?ってくらいがちょうどいいのかもしれません。この2晩続きのこてこてでダウン。その次の日から2日ほど食欲なし。
 マドリッドには店にハムの塊をぶらさげたバールともカフェともつかないような店があって、マドリッド一日目にたまたまその店にコーヒーを飲みに入った。カウンターで飲んでいると、安くてけっこう美味しかった。そのときカウンターに、日本の寿司屋のようなガラス張りのウィンドーがあって、そこにバケットを薄くスライスした上に生ハムが一切れ乗せられているのがびっしり並べられていた。ビールやワインのあてにちょうどいいんだろうな。
 ところでパエリアで胃がくたばった次の日、すっきり生ジュースを飲みたいと、その店に行った。このオレンジをしぼって生ジュースをつくるマシンのたいそうなこと。なんで?と思うほど。とにかくその店に行ったら、カウンターがいっぱいで、上にホールがあるから、そっちに上がれという。言われるままに上に上がってオレンジジュースを注文。するとハムはいらんか、美味しいんだぞと、壁に貼られたでっかい写真入りのメニューを指さす。生ハム一切れ乗せたバケットのスライスなら1つくらい食べたかったんだけど、その写真と値段を見ていると、どうもやばそうなので断った。これが正解。あとから来たスペイン人の注文したのを見ると、直径20cmくらいの皿にびっしり生ハムが敷き詰められていた。あれだけの生ハムを日本で食うとひどく高くとられるんだけど、ものには加減ってものがあるんだよなぁ。ましてや、弱った胃にはあの生ハムの量は参るって。
 パリではもうマドリッドの量に懲りてたから、極力さけたけどね、隣のテーブルなんかを見ていたら、300gくらいのステーキに、それとは別にじゃがいものチーズ焼きのようなのがついてたりして、連中の大喰らいにはあきれ返るばかり。

(つづく)
 


■2003/09/06 Sat■  欧羅巴裏道徘徊(1) [長年日記]

 花のパリで、凱旋門見てません。シャンゼリゼ歩いてません。30年前に行ったから。それならヴォージュ広場だって30年前に行ったのに、今度もしっかり行ってる。だって、シャンゼリゼったって、つまらんでしょ。ルイヴィトンやシャネルがあってもしかたない。シャンゼリゼも裏に回ればおもしろいのかもしれないけど....
 旅行に出る前に図書館で早川雅水『パリの横丁・小路・裏通り』という本を見つけた。パリ大学で学芸員かしてる人が書いているのだけれど、これを地図と首っぴきで読みまくっていたから、おかげでサンジェルマン近辺の地理はほとんど頭に入っていた。まさに地元の人間のように地図なしで町をうろつき回ることができた。だいたいガイドブック片手に、町を歩いている旅行者をすごくよく見かける。パリであってもローマであっても、それに日本人に限ったことでなくて、たぶんアメリカ人だろ、もういつでもどこでもガイドブック。なんか、ガイドブックに書かれているのが間違ってないかチェックして歩くみたい。
 それでもなんぼ人間ナビと自認するボクであってもまったくの地図なしでは歩けなくて、ちゃんと地図は用意してるよ。今回の旅行で持っていったのは、BOOKOFFで買ったるるぶ。地図が大きいというだけね。BOOKOFFで、200〜300円くらいで売られていたものだから、当然2003年版じゃなくて、2000年版とか。アジェでもわかるように、ローマやパリなんてところは、100年間街路が変わってないんだから、数年前ので十分。さすがに30年前のではこころもとないけどね。るるぶを片手に歩いている日本人も何人か見たなぁ。ボクは2〜300円で買ったから、きょう歩くだろうところだけびりびりと本を分解して持ち歩いてた。ああいうガイドブックってさぁ、きれいに使っていてもBOOKOFFに売りに行ったら10円か20円にしかならんでしょ。で、つぎ行くときまで大事にとってるはずがなくて、そのときはそのときでまた買うんだから、ばらばらに分解してしまって正解。シャンゼリゼやフォーブル・サントノレなんか行く気がないんだから、そんなところの情報まで持ち歩く必要ないもんね。
 あと100均で買ったA4のノート。これにはmappy.comからダウンロードした地図を貼り付けた。しまいにはその地図もノートからひっぱがして持っていたけど。とにかく今回は、大まかな地図がほしかったので、るるぶをBOOKOFFで買っただけで、あと地球の歩き方とかのガイドブックの類は図書館で借りてすました。そこからこれはと思うのだけ、そのA4ノートにメモしといて、余ったページは毎日の日記を書き込んで、ほんとこの100円は重宝した。

 ふーっ、前説が長いのだから、断っておきますが、まだ前説です(笑)
 だいたいひねくれもののボクは観光地というのは好きじゃなくて、その裏側というのをうろうろするのが好き。それでも観光地を侮っていたら痛い目くう。例えば、バルセロナのサクラダ・ファミリア。これって30年前のガイドブックにも書いてあったのかなぁ。30年前にバルセロナに行ったときは、ホテルが旧市街にあったせいか旧市街ばかりうろついていた。それからバリオ・チノに迷い込んで、ヤバいなぁと焦っていた。あとからわかったのはそのバリオ・チノのあたりにジャン・ジュネがうろついていたんだとか、それならもっとうろつけばよかったかなぁなんて。結局、今回はバリオ・チノには行かなかったけど。それと30年前にはガウディなんか誰も騒いでなかったぞ。一部の建築やアート関係の人間だけが知る人ぞ知るってところだったのに。30年前の無知と、ガイドブックをちゃんと読んでなかったせいで、ガウディ見たさに、今回のバルセロナ再訪ってことになったわけ。
 バルセロナの旧市街あたりというのは、一歩入り込むと、洗濯物がぶらさがっていて、かなりどころか強烈に生活臭が漂う場所だったりする。ただ、この地域はカテドラルやローマ時代の城壁などがあって、観光地と背中合わせなわけで、そういう生活臭ぷんぷんするところに、異分子である旅行者が迷い込むことが多くて、そこの住人もけっこう慣れてしまっているようで、またアフォな旅行者が来よったぞくらいで済ませてくれる。ところがパリのベルビルあたりいなると、ごくまれにしか異分子が入ってこないので、をい、なんかけったいな旅行者が来よったぞって視線で、なかなか裏の方に入って行きづらかったりする。そんなに治安が悪いとかいう場所ではないから、裏のほうに入っても大丈夫なんだろうけれど、そこでちょっとした不安になるのは言葉の問題で、英語なんて通じると考えられないので、なんか言われたらどうしようという不安が先に立つ。たいてい、ボンジュールって言うとけば済むんだろうけどね。
 ルードバックのちょっと入ったところで、教会の前に座ってるおっさんがいて、こっちをじろじろ見てる。そこで逃げの「ボンジュール」とやったら、おっさんが何やらフラ語で喋りだした。それでジロジロから回避できたのだけれど、わけのわからんフラ語でやとわかったのは「小銭くれ」だった。ようは物乞い。それはともかく、裏道を歩く世界共通の極意は「こんにちは」だね。目があったらぺこっとお辞儀しとくといい。
 何はともあれ、旅行していて、行った先の生活が見えてこないとなんもおもしろくないのは確かなのだ。観光地を巡るだけの旅なんて。

つづく
 












■2003/09/14 Sun■  ルーブル [長年日記]

もちろんあれだけの物量だから、細部を見尽くした思っても、見落としているものはたくさんあるだろう。現場での気持ちというのは舞い上がるもので、その場で度忘れしてしまう感覚がある。帰ってきてから、あれを見落とした、これを見落としたという忘れ物を思いだしたりする。その忘れ物がいっぱいあるようで、しかしそれが何だかわからない。
赤瀬川原平『ルーブル美術館の楽しみ方』

 ヨーロッパの旅行から帰ってひと月近くも経ってしまうと、その忘れ物さえあやふやになってくる。原平先生はルーブルの所蔵品のカタログを買って、それを首っぴきにして『ルーブル〜』を書いているようであるが、そんな広辞苑ほどもある分厚いカタログを買うと重くてイヤだったので、当然手もとにはない。だから、誰の何というタイトルの絵画だったのか、非常にあいまいになっている。目の前にしているときには、「ふんふん、これがファン・アイクね」などとしたり顔してたりするのに、いざどんなんだったというと、思い出せないでいる。さらに、あれーこれは見たんだったか、それとも何かの本の中で見ただけだったんじゃないかというような自分自身へ疑惑さえ湧いてくるのだ。そんなんだったら、わざわざパリまで行くなよって声も聞こえてきますが....

 さて、原平先生も「一番の目玉というか有名作品の二大巨頭は、やはりモナ・リザとミロのヴィーナス」と書いているように、まず最初に目指したのはミロのヴィーナス。館内で無料で配布されている日本語版のガイドマップを頼りにミロのヴィーナスに直行。さすが、さすがのミロのヴィーナスであります。その優雅さは他の彫刻群は到底及ばない....なんて、ボクが美術評論してどうなる。30年前の時は「ここらにミロのヴィーナスあるで」と冗談半分に到底ありえそうもないようなところで言ってたら、突然ヴィーナスのお尻が見えてきたのだったが、今回はマップ見ながらたどり着いたから、真っ正面からご対面。
 正直なところ、彫刻っていうのはいまいちよくわからなくて、そりゃバランスの悪いなぁというようなことくらいはわかるけれど、フィレンツェにもアホほど彫刻はあったし、ここルーブルでもそう、どてっ、どてっと塊が置かれていると、どう見ればいいものやら。そして丹念に見てたら、絵画以上に時間がかかりそうで、それだけで日が暮れてしまう。それらの存在感だけで満腹になってしまいそうで、きっちり見ようという戦意ははじめから喪失してしまってるのだ。
 ところがやっぱりミロのヴィーナスだけは別格だね。この理想的なバランスに惚れ惚れしてしまう。あゝこんな女がいればなどと下世話なんぞ吹き飛ばしてしまう。ほとんど誰もがするようにぐるっと一周して眺め入ってしまうのだ。とくに左後ろから見るヴィーナスがすごく最高だね。

 あとサモトラケのニケくらいかな、ちゃんと見たのは。ね、もう何か忘れ物だらけでしょ。そこからどどどどーっと絵画、絵画、絵画、絵画、、、、いちおう目ぼしいものは一当たり見たはずなんだけど、プラドーやウフィツィとごっちゃになってしまってたりもする。ただね、30年前の時は結構走ってみたような気がするんだけれど、今回は自分自身の絵画に対する造詣(そんなたいそうなものではないのだが)も深くなってる分、けっこうしっかり見てたから、疲れて、疲れて。どれがどうだったといちいち書かないけどね、それだけの能力も造詣もあらへんし、ルーブルの解説本だったらいっぱい出てるんだから、今さらボクが書いたってしゃあないしね。う〜ん、それでも今回生で見て、でかさに圧倒されたのは「カナの婚姻」かな。

 と、もうまとめにかかってると思うでしょ。そんなもんでルーブルは堪忍してくれませんね。モナ・リザのことも全然書いてないし。モナ・リザ見ました。ですが、見ただけに終ってしまったなぁ。また30年前の話になるけれど、モナ・リザも、ヴィーナスと同じように到底ありえないようなバカでかい部屋の入り口で、冗談半分に「ここにモナリザあるで」と言っていたら本当にあったのでビックリしてしまった。それも素にあって、ただモナリザのすぐ下には、空気の温度や湿度を監視する機械がおかれてあるだけ。とびきりみんながモナ・リザに群がっているということもなくて、ゆっくり見ることができた。その直後にモナ・リザは日本に行くことになっていて、お先に独り占めにしてるようなちょっとした優越感を感じたりもしてた。ところが日本での展示はガラスの向こう側に収められ厳重そのものだったらしく、その展示方法までルーブルに持ち帰ってしまったらしいのね。今回は、相変わらずモナ・リザ特別室なんてところに展示されているわけではなくて、やっぱり大きい部屋(30年前とはたぶんちがう部屋)に他の絵に混じって展示されていた。しかもこのモナリザだけは写真撮影禁止。これはたぶんモナリザの前で人が滞留してしまうのを避けるためのようだが。それでもモナリザの前には人がいっぱい。これにはさすがにもういいやって気になってしまって、見たという事実だけに終ってしまった。見るのならゆっくり独り占めしてるように見てたいよ。

つづく
 




■2003/09/23 Tue■  阪神タイガース18年ぶりの優勝の軌跡とまごちゃん [長年日記]

 ずっとヨーロッパネタで通してしまってたからね、ちょっと閑話休題でこの1ヶ月のことなどつらつらと。

 帰ってきてみんなに言われたのが「ヨーロッパ暑かったやろ」。が、マドリッドでは39度などと、確かに気温は高かったけれど、空気が乾いているのでそんな暑いとは思わなかった。パリも、前日までは40度越えたりしてたらしいけれど、最終日なんて寒いくらいよ。それに比べたら、この1ヶ月の日本の暑さはどうよ。とくに大阪の蒸し暑さときたら、たまったもんじゃなかった。今年は冷夏だと、ヨーロッパに行く8月の初めに騒がれていたけど、そのあともお盆までは冷夏で、台風まで来たらしいな。お盆過ぎからやっと暑くなって、ヨーロッパから帰ってきた20日過ぎがどうも暑さのピークだったらしい。こりゃたまったもんじゃない。帰ってきてすぐの頃は時差ボケなのかと思ってたら、そうでなくて暑さで寝られない状態が続いてほんまにばてた。あせもなんてのもできたくらいよ。
 9月になっても、関東からあっちは涼しくなったらしいが、関西はもうむちゃくちゃに暑くて、朝からじりじりと照りつける太陽で、何もする気が起らない。まさにタイガース熱。

 さて肝心のタイガースのほうは、7月初めにマジックが出て、あとは決まるのはいつだってだけになってた。ヘタすりゃ8月末だなんてね。ヨーロッパ行ってる間に決まったらどうしようなんて。ところが、さすがタイガース、死のロードでやってくれちゃって、ボクがヨーロッパから帰ってきてからもころころと負けてくれて、死のロード終ってみれば、4勝11敗。あの頃はセリーグで一番弱かったな。ところが甲子園戻ってきたら、これがあのタイガースかと。ここらあたりからもう晩になったらテレビの前に釘付けで、終ったら終ったで、タイガース関連サイトばっかり見て歩いて、ほとんど何もせず。実際、夏バテと重なってたからな。
 ここらあたりは何もうちで書くこともないのだが、《阪神タイガース18年ぶりの優勝の軌跡とまごちゃん》が本日のテーマですからね。そして8月末からの甲子園7連勝マジック5で、いよいよに迫ってVロードへ。誰もがそう思っただろうけれど神宮で決まると。ところがどっこい神宮、名古屋と、1分けはさんで5連敗。しまいにはどうでもええから決めるのなら甲子園で決めてくれいと星勘定して(ここらはうらまごの9/10〜14あたりに詳しく書いたから)なかば中日応援。
 そしてマジック2で迎えた15日ですよ。ゲーム始める前は、きょうは負けといて、その間にヤクルトに負けてもらってなどと調子のいいこと考えていたのだけれど、ゲームが始まったらもうどうにもこうにも止まらない。はじめのうちはTon2とメールで「いらいらいらぶぅーたれ」などと送っていたけれど、5回に1点差に追いついてからというもの、もう無我夢中。これはタイガースファンなら当然のことなんですが。8回に片岡のホームランで追いついた。そして9回。冷静になって考えれば、その日でなくても、あと数日で決まるんだから、そう興奮しなくてもよさそなものなのにね。赤星が打った瞬間に、悪くても犠牲フライでサヨナラとわかる打球だったので、手にしていたメガホンでそこらをどつきまくって、テレビに映しだされた大騒ぎに涙がでてきてたのだ。
 18年前の優勝決定の時はそう涙が出てくるってことなかったのにね。ただ最終戦に甲子園に行ったとき、ペナントをもって場内一周してるの見て、そこにアキレス腱断裂で優勝直前に戦線離脱してしまった山カズ(山本和之)を見つけたときには涙が出て止まらなかった。
 今年は早々と当確出してしまったから、息が詰まるようなことほとんどなかったからね。と、言いながら、サヨナラ勝ちでマジック1になって、ヤクルトが負けてるのを知ったら、いても立ってもいられなくなって、梅田にとんでった。もう落ち着いたいまになって考えたら、オトナしくテレビで胴上げを見、優勝セレモニーを見てしみじみこの18年間に思いをはせるのもよかったかなと思う。
 ひとくちに18年と言っても長いよなぁ。前の優勝を機に、Ton2を甲子園に連れて行くようになって、いつの間にかTon2はトラキチになってしまってんだから。そのTon2ももう24でしょ。
 ん〜、この18年間なんて書こうかと思ったけど、うまくまとまらないな。この18年間にはいろいろあった、それくらいか。軌跡にもなんにもなっとりませんが(笑)

 とにかく、ようやっとクソ暑かった今年の夏も、タイガースの優勝とともに終ったな。きょうは秋分の日。あしたから夜の方が長くなる。

 


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