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うらまご/まごまご日記/まごっと/まごれびゅ/P-FUNK/maggot

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■2003/04/01 Tue■  家族の肖像 [長年日記]

 テレビで野球、の季節(シーズン)が始まって、また何もできないシーズンがやってきた。きょうもそうね。さっさと勝ってしまえばいいものをもたもたしやがって。あんなチームのファンを50年近くやってると大変だ。数年前なら、はなから見る気も起らなかったから、ある意味、しあわせだったよ。
 えーっと、江夏豊解説で見てたからね、中継終わってからガオラに変えましたが、そのテレビ中継の合間のCMで、南海部品のCMのダサさといったら天下一品。さすが大阪制作のキワモノだわよ。だっせぇ〜っサングラスしてジェットヘルかぶったぶっちゃいねえちゃんに、これまたぶっさいオオサカンギャルが「めっちゃかっこエエやんかぁ」 もうちょっと小ましなモデル使われへんのかい。あまりにもあまりだったので変えって印象がガツーンと残って、ウケ狙いなんでしょか。
 「あなたクルマ売る?」

 話はがらっと変わって、ジョーシンのポイントでプリンター用紙をもらってきて、こないだの東京のをぼちぼちプリントアウトした。前からそう思ってたのだが、家族の肖像というのはちょっと怖いもんがある。そう思って、ミセス・ジョーンズ作ってみた。あれなんかはまだ怖いという感じがしない。というのは、家族がみんな集まって、「はい、チーズ」ってやってる分にはさほどでもないのだが、いわゆる写真館で、「はい、行きますヨ、あ、お父さん、顔をもう少し…」なんてやって、ぼしゅっ!とマグネシウムの閃光、をい、いまどきマグネシウムなんかでやってるかい。とにかく写真館で写した家族の肖像(c)ルキノ・ヴィスコンティ ね、それはほとんどの場合、怖いです。
 そして、その家族の肖像がどいうわけか、お約束のようにその写真館のショーウィンドーに飾られてある。その写真館で写した家族というのは何組もあるはずなのに、ショーウィンドーに飾られるのはどういう選択基準で決まるのだろうか。それはそれとして、真夜中でもそのショーウィンドーにカーテンが引かれる様子もなくて、ショーウィンドーの中から人通りの絶えた通りを見つめる家族というのは不気味で。そんなショーウィンドーから真夜中に呼び止められたら

 あまりに怖いので話題変えます。こないだの披露宴の二次会のこと。ビンゴだとか100円総取りジャイケンだとかはもう古くて、いまや、携帯早押しクイズ! つまり正解がわかったら、決められた携帯にコールして答えを言う。一人一台携帯の時代なんですねぇ。これがめちゃウケで、あれだけで調子こいて1時間以上もやってたんとちゃうか。きっちり終電なくなってしまってたやないの。だけど、おかげさまで二次会の会費、ほぼクリアでき、そして謀らずも、ほとんど信じて貰えないボクの職業が証明できて、よかった、よかった○

 






 


■2003/04/02 Wed■  No More『嵐の初夜』 [長年日記]

 たまには写真から離れて久しぶりに与太話。
 ちゃがわぁん むーちょを見ると《.03.31 嵐の初夜》ををー、茶さんの初夜か、嵐のくんずほぐれつ、その実況を彼女ならこと仔細に「わたしは震えが止まらなくなり....」などと書き上げてくれるだろと、スケベに期待したボクがバカだった。考えてみれば、いまどき(←100%オジン語)、結婚式のその夜、つまり初夜まで、大事にとっておく奇特な人なんてのはおらんでしょ。たいていお試しはとっくに済んでいる。つまりは「初夜」なんてのはすでに死語というか、消滅してしまった因習とでもいうべきなんでしょ。
 それと最近の傾向として、二次会、三次会が横行しておって、それが終わるころにはぐでんぐでんで勃つものも勃たん。それ以前にもう疲れきって、今さら一発なんて気にもならんでしょ。だってもうほとんどやり飽きたころに結婚してんだしサ。初夜まで全然やらないでいたという現代の化石というべき人間も約一名知っておりますが、彼も二次会でぐでんぐでんに酔っぱらって、はっと目覚めたときには、嫁さんが一人寂しくホテルの部屋に座っておったと、ほんまかいな。
 それから、ちゃがわぁんさんも「お互い式の準備や式当日の緊張やら疲れやらストレスやら諸々」と書いておったけれど、この結婚式やら披露宴っていったい何なんだい? ボク自身はこんなもんは二度もやりたかないと、そのとき痛切に思った。食うもんもまともに食えないしな。うちでは結婚式当日の写真というのは二度と見たくないものとして押し入れのどこか奥の方に押し込んだままになっている。きっと紙魚の餌に成り果てていることを切に願っておるのだ。
 しかし世の中には、二度(さらに三度?(笑))も、結婚式というものをしたがる人(結婚式フリーク)が意外にボクのまわりには多い。さらには同じ人間の披露宴に、親族でもないのに、二度参加したというのもおるでしょ。こないだの披露宴にもそういうのがいたな(笑) まぁ、当人じゃないからお気楽なもんですが。
 結婚というのは何度でもしてみたいとは思うが、結婚式・披露宴というのは金輪際ごめんだと、出会って33年目のきょう、あらためて思うのであった。
 
 


■2003/04/05 Sat■  あなたもランナーの完走に賭けてみませんか? [長年日記]

 よそ様の日記 INPUT★OUTPUT 04月05日(土) とこり

オットの200?自転車マラソンに、日記の読者数名からスポンサー申し込みをしていただく。ほんとうにありがたい。オットも私も大喜び。
 ん?200kmなら日頃走ってれば楽勝だろ。ボクも30数年前に紀伊半島一周7日間で走ったやない。そんなもん簡単と思うだろ。が、30数年前だ。正確には1967年のことだ。42号線は大阪から白浜までしか舗装されておらず、その先はほとんどダート。その頃にオフロードバイク乗ってたらサイコーだっただろうナ。木本(熊野)-尾鷲間の矢の川峠なんかオールダートだぜい。それにちょうどきのうのようなひどい雨で、道路はマディーになって自転車の車輪が泥にうまってリムまで沈む。
 7日間だったけれど、そのうち1日は瀞八丁にプロペラ船に乗って遊んだから正確には6日間。もっと正確には江住-串本の間50kmほどはトラックの荷台に乗せてもらった。
 初日は大阪朝5時出発、紀伊田辺夜9時着の200km走行だし、が、ずっと向かい風で10数km/hしか出ずに辛かった。ラスト1日は三重県の松阪から1号線、つまり鈴鹿越で京都経由で走ったから、これは12時間未満で200km走ったことになるかな。
 それに30数年前の自転車はいちおうサイクリング車だけど、そんなの名ばかりで、車体は鋼鉄で重いワ、おまけに着替えとかいちおう荷物も積んでのことだから

 楽勝、楽勝!12時間200kmなんて。

 かと思うと、3週間8000km下道日本一周(くわしくはここ読め、ワンワン)。このとき一番辛かったのは、8/11の776.6km島根〜長野の11県走破のときか。

 楽勝、楽勝!12時間200kmなんて。

 てな、ふうに思いきりけしかけてますが、ボクもスポンサーつけとけばよかったよなぁ。いつもタダ走りだったもんな。でも紀伊半島も日本一周もあちこちでお世話様になって感謝しとるよ。それに走ったからって、すべては自分の道楽のためだったから、それにひきかえ、とこりオット様はえらいです。

「戦火の子どもたち」のためのチャリティー自転車マラソンを実施します!

だもん。頑張れぇ〜、とこりオット。詳しくはこちら

  


今年の櫻 2題


 

 


■2003/04/06 Sun■  写神に感謝 [長年日記]

 今回の一人で走った小旅行はいろんな意味で楽しかったな。ほとんどうらまごの方に書いてしまったからから、あらためて書くこともないんだけれど、温泉も3ヶ所も入って、しっかり命の洗濯もできた。しかもほんの一瞬でも若い女性の全裸を見れたのだ。これを至福の時間と言わずに何と呼べばいいのか。アフォ.....(-.-)

 一番の目的だった憧れの森山大道のプリントが見れた。やっぱりこれに尽きるのね。自分で言うのもアレなんだけれど、元来ボク自身は『路上』な人間なわけで、写真を写してはみたりしてはいたけれど、どういうわけだか、これまで《森山大道》という事象に行き当たらなかった。サイコロでいうと、しっかり《森山大道》と彫り込まれたサイコロを振っていたのにその目が出なかった。そういう目があるのにも気づかずにね。確率みたいなもので、説明しようがない。30年も前にきっちり「月笛お仙」を目にしていたのに、その写真から違う方向に走り出してただけ。そうして30年経って、やっとのことでサイコロの《森山大道》の目が出たってこと。
 しっかり美術館の表に架けられていたヨコスカを複写した幕を複写してみた。わざと露出オーバーにして飛ばしたかったんだけど、そこまでいかなかったナ。それでも変形された分だけ、エロさが強調されて、自分自身でぞくぞくしてしまってる。もちろんオリジナルの凄みにはとても及ばないけれど。でもこのオリジナルがとても好きだから、このボクの複写も自分ですごく気に入ってる。
 そして森山大道だから、その上前を撥ねた2枚目も自分で好きだなぁ。ひゃひゃひゃ係のお姉さんの目を盗んで隠し撮りしたの。そんなのありかって、大道先生がありだっていうんだから。もし森山大道がここを見ることあったらきっと苦笑いするだろうな。
 松江って町はボクにとってはとても思い出の深い町で、今回森山大道のプリントを見て、一番がちーんと残ったのはプロヴォーグ2号の写真だったというのは、それが松江だったからかもしれないなと思う。そんなふうに見る側の心のどこかにひっかりを作ってしまう、そんなところがグレイトなんだと思う。

 ひょんなことから夜見ヶ浜や大山にも行けて、この頃は目がすっかり町の中に向いてしまっていたから、『路上』というのは決して町の中だけやおまへんでと写神が連れて行ってくれたような気がするのね。
 そこでも駐車場で三脚構えて「このままで待ってようか」と、アマチュアカメラマンがいる。ちょっと説明をすると、その時点で4時ちょっと過ぎ。天気は快晴。雪を残した大山が白く輝いている。写真の常識からしたら、あと1時間か、1時間半かすると、光がすごく良くなる。ボクだって、その光が欲しいと思う。でも同じようなアングルでファインダーを覗いてもちっともおもしろくない。いちおうシャッターは切ってはみたけれど、このアングルで光がぐっと良くなったからって、そのときに自分がたまたまそこにいたという偶然性、でか口叩くなら自分の存在証明にもなんにもならないじゃないか。アリバイ工作をやってるだけじゃない。これはいつも思っていたところで、今までずっと写真を写してきてもどこかおもしろくないことの一番大きな原因だった。それで駐車場内をふらふら歩いて、ふっとノーファインダーで写してみたら、写神ってすごいよねぇ。ほんとはもうちょっと左に振るつもりだったのに、しっかり光と影を写し込んでくれてんだもん。写神に感謝。

 ほんとはもっと他にも、これどうよって見せたいのあるんだけど、やめとこ(笑) 芸の安売りは身を滅ぼす。所詮、真似っ子だし。

 







 


■2003/04/07 Mon■  貧困なる花見 [長年日記]

 櫻というのは一種のステータスみたいなものがあって、「今年の櫻は」というふうにあらたまって考えてみたりする。「今年の女郎花は」とか、「今年のスターチスは」などというのは聞いたこともない。当たり前か。じゃ、これならどうだ、「今年の向日葵は」「今年の秋桜は」「今年の薄は」やっぱりここらあたりでもありそうもない。「今年の梅は」。。。ははは、もうしつこいですか?
 だから梅を見に行こうなんてことは毎年しない(去年はわざわざ行きましたが)くせに、櫻だけはよほどのことがないかぎり毎年どこかで花見をしてる。わざわざ鎌倉だったり、四谷だったり、貝津だったり、京都の疎水だったりもするけれど、ボクの場合はやっぱり万代池。万代池の櫻にはいろいろあるんですよ、いろいろ、櫻にまつわる話が。
 一周700mの池の周りが櫻並木で、櫻のトンネルにまでなってるところもあったりする。小さかった頃には、なんで櫻の名所というのにあがらないんだろうと思ってた。そんなふうに櫻の名所などとされなかったからか、万代池には近くの人だけしか花見に来なくてとても静かだった。夜櫻なんかだと愛も囁くことができた。それくらい静かだった。満開の櫻もそれはいいけれど、はらはらと櫻吹雪が風に舞ってる情景はいまでもはっきりと残っている。
 それがまぁここ何年かの賑やかなこと。どこかのバカみたいな情報誌にも載ったりもしてるんだろうな。真っ昼間からブルーシートを拡げて場所取り。これはほんとに貧困なものがある。ブルーシートのどうしようもない青と櫻の淡い色というのは絶対に相容れないものがある。そんなことさえ感じ取れない貧困さが情けなすぎる。文句あるなら、緋毛氈敷いて太閤花見をやってみろ。緋毛氈の上に散った櫻の花びらは美しい。そのような美意識のかけらもブルーシートにはない。
 もうひとつどうにも我慢ができないのは、焼肉の臭い。櫻の下で焼肉する人間の気が知れない。彼らは櫻がほんの微かな薫りを放っているのを知ってるのだろうか。  要するに櫻をダシにして安上がりに飲んで騒げればそれでいいだけなのだよ。だから貧困だと。右の連中の情けないこと、ボクもたまには嫌悪感で写真を撮ることがあるのだ。ビヤ樽にケンタのフライドチキン...けッ
 考えてみれば、この貧困な花見宴会と景気の下降は相当の相関関係があると気づくはずである。
 





 


■2003/04/09 Wed■  春眠 [長年日記]

 日乗が始まりはしてるのだけれど、まだ助走段階のようなもので、きょうもさっさと帰ってくる。ヤフオクで落札した荒木経惟の写真集2冊が届いていて、ベッドに寝転がってぱらぱらと見る。ブラインド越しの西陽が本の上に縞模様をつくり出す。横に気持ちよさげに寝ている猫たちにも縞模様。あまりの気持ち良さにそのまま昼寝。

 こないだからプリントアウトしてる写真が、早くもクリアファイルいっぱいになった。いっぱいになったから、何人かの人に見てもらった。廃屋を写した写真を見て
「軍艦アパートって知ってますか」
「あ、軍艦島やろ」
「あ、そうじゃなくて、大阪の。もう取り壊されましたけど」
「日東アパート、そこやったらもう写しに行った。」
「日東アパート、言うんですか。そこばっかり写して、いま何とかいう写真家の賞をもろたらしいんですわ」
「森山大道やろ。それやったら、ほらこれ、森山大道のを」

 仕事中の空いてるときに荒木経惟の『愛情旅行』を読む。軽井沢万平ホテル、上高地帝国ホテル....ええ、とこばっかり泊ってやがんの。万平ホテルなんてお茶しただけ。帝国ホテルなんて朝食食べに入っただけ。

 





 


■2003/04/10 Thu■  ドキュメントからモニュメントへ [長年日記]

 中平卓馬の『写真論』から、『なぜ、植物図鑑か』となる元の『記録という幻影??ドキュメントからモニュメントへ』を読む。この写真論から容易に思い至るのが、きょうの出来事。それはバクダッドに侵攻したアメリカ軍がフセインの像を引き倒した。その像に駆け寄ったイラクの子どもが靴でその倒されたフセイン像の頭を叩いている映像が流されていたのだ。マスコミはフセインに抑圧されていたイラクの民衆が解放されて、イラクでは最も軽蔑を表す靴で殴る行為に出たと喧伝する。
 が、そのような映像が存在することを、まともに受け入れることはできないのは中平の論考を待たなくても容易にわかる。それはドキュメントして世界中に垂れ流されてはいるが、明らかにそれはドキュメントでなく、モニュメントなのである。フセインの像がモニュメントである以上に、この映像は最初からモニュメントとして存在させられた。
 イラクの子どもにちょっとした金を握らせるだけで、いとも簡単にあのような映像を存在させることはできるのだ。
 かつて湾岸戦争で「ファイアー!」と叫んで、あたかもゲームのようにピンポイント爆撃をするレーダーの映像が垂れ流されたが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に忌まわしい映像であることを心に刻んでおきたいと思う。
 

 


■2003/04/13 Sun■  松島やああ松島や松島や [長年日記]

 ●汐見橋から中央図書館
 汐見橋線の岸里玉出の駅はうざい。結局、昔の玉出から岸里の一駅分歩かされることになる。おまけに向いの本線のホームを歩いてるうちに電車は出ていくし、汐見橋線のホームに着いたら、20分に1本だぞ。15分以上も待たされる。しかし乗客10人足らずでは文句も言えない。大阪市内随一のローカル線だもんな、廃線にならないのが不思議。それも最近ボクがよう乗ったってるから。
 徘徊のついでに借りてた本を図書館に返しておこうと。返すからにはまた新しいのを借りてしまうのでずしんと重い。こういうとき紀伊国屋でもらったアラーキーのトートーは役に立つ。倉庫の壁を写してると、そこを通った人が、何を写してんだといぶかしげにカメラの向いている壁を眺めていく。何もないから、ますます変な男だと思うだろう。
●松島遊廓
 また倉庫やら古いビルヂングやらを写しながら松島遊廓へ。
 いきなりおじちゃんに「あんた何を写したんや」と詰問される。やべぇ、やべぇ、そこん家のオヤジだったのか。
「いや、ほうぼうの旧赤線の古い建物を撮り歩いてるんや」とこうなったら正直に答えなしゃあないやろ。
 どうも週刊誌やらに、エエ加減なこと書かれたり隠し撮りされてすっぱ抜かれたりで困ってるらしい。なんでも松島の飲食店組合の役員やってるおっちゃんらしい。ああ、ボクも隠し撮りで写したりしまんねんとは口が裂けても言えない。あくまで「趣味ですわ、趣味」
「旧赤線の建物というのは、ステンドグラスとか残ってたりして美しいでしょ。ほら、あそこの角に見えるタイル張りの建物みたいなんが残ってるんですわ」
 という調子で、こっちの蘊蓄を展開し始めたら妙におっちゃんも納得。
「こないだも橋本に撮りに行ったし、東京にも行って、吉原写してきて」
「吉原ってもうソープ街になってしもとるやろ」
「ソープ街の間にまだちょこちょこ残ってるんですわ。もう営業してへんけど。」
「橋本はどうやねん。」
「ああ、橋本はもうどこも営業してへんで、壊れてしもたりして。何年か前まで、すごく綺麗に残ってたのが、こないだ行ったら、もうボロボロになってしもたり」
「うちも雨漏りがひどいんや。まぁとにかくこういうところやから嫌がるさかいにな、せっかく電車賃使うてきてんねんから、注意せな文句言われんで、気ぃつけや」
 ふーっ(^◇^;) しかしこの前に来たときよりよう見たら、写真になるのいっぱいあるなぁ。そのくせかしゃっ、かしゃっやって、振り向いたら、その向いは営業してたりして、うーん、どうもここは写しにくい。おっちゃんに御注意受けたことだし、早々に退散。
●九条から西九条
 松島を抜けて九条商店街。ふらっと歩いてたらシネヌーヴォーの前に出た。26日から寺山特集だと。これは是非とも見にこないかん。九条OSはこないだ来たときには怖そうなお兄さんがいたので何も写せなかった。でも表は全然扇情的なこともなくて、A級伏見みたいに本日の出演と踊り子さんの写真くらい貼っといてくれよ、何のねたにもなりゃせんって。商店街の裏側をあっちゃこっちゃごちゃごちゃ歩く。安治川トンネルで此花区へ。西九条の阪神のガードの周辺とか、ちょっとおもしろかったりするけれど、ここらあたりから疲れてきた。疲れてきたらカシャッも鈍ってくるのね。環状線の野田を目指しててくとこ歩いて、地下鉄で西長堀へ。
●南堀江からアメ村、そしてナンバ
 西長堀で下りたのはナンバまで乗ったら230円になるというケチな根性。ちょこちょこと南堀江の店を覗いたりしながら、四ツ橋筋のスタバで休憩。三角公園やビッグステップの前でちょこと写してみたけど、こないだの渋谷のほうがずっと人が多いし、明るいんだよなぁ。やっぱり東京と大阪の差か。
 ふらっとアセンスに寄ってバルテュスの画集を衝動買い。ナンバまで歩いたらもう足の裏にマメまでできてやがんの。
 









 


■2003/04/14 Mon■  モノクローム - 連夜の街 [長年日記]

 本を読んでる最中に話しかけられると辛いものがある。お気楽に読んでいる本ならどうってことないし、たいがいボクだって人のお邪魔をしてるのだけれど、きょうなんかはうらまごにも書いた石内都の『モノクローム』で、それも『連夜の街』のくだりで思いきり浸りきってしまってるときはどうしようもない。ほんと無愛想でごめんねぇ〜m(__)m

 「愛がなければ写真は撮れない。やさしさだけでも写真は撮れない」

 うらまごのほうにだけ書いておくのはもったいないのでこっちにも書いとこう。そうなんだよなぁ、この名文句が出てくるところでもお邪魔虫がやってきて、ほんとくっだらないこと言うので「あっち行け!」と言うてやったのだ。浸りたければカプセルの中にでも入って本をよむべきなんでしょね。

 石内都の『連夜の街』というのは「歴史から降ろされた街がある。地図に赤い線でしるしを付けられた街」を、「女だから呼ばれたのだ。磁場としての赤線の街にカメラを持つ私はいやおうなく吸い寄せられ、強い力に身をまかせ」て撮った写真集。
 今年の3/23にボクも『連夜の街』のなかで石内都が写した同じ建物、オブジェに対してカメラを向けた。その差ははっきりしている。ボクだって、石内都と同じように、歴史的に赤線がどうであったか、そんなことには興味はない。それは石内都が「磁場」と表現するように、ボクにも強い力が働いて引き寄せられていく。が、男だから呼ばれはしなかった。呼ぶのは、遣り手婆の「兄ちゃん、エエ子おまっせ」という声だけ。
 彼女の名古屋の中村遊廓でのお袖さんとの出会いのくだりはほんとせつなかった。「連夜の街に史実はいらない。」という彼女は、その「お袖さんから何一つ遊廓春福楼の話を聞かなかった。」という。

 



 


■2003/04/18 Fri■  町と街、道と路 [長年日記]

 字源でも調べりゃ済むんだろうけれど、「町」と「街」、この使い分けは、以前からまご日記に書いたりするときに迷っている。自分ではストリートとかでごちゃごちゃと入り組んだイメージのときに「街」を使ってるつもり。どうたねん?と話してたら、「町」というのは、城塞都市であるとか環濠集落であるとか、居住地、商業地として一定の区域的に仕切られたところだそうで、これに対して、かつてはぽつぽつと「町」があって、それを繋ぐ過程で、道の脇に拡がっていったのが「街」だと言う。
 ふむふむ、ということはボクが使っていたストリートを中心にした猥雑なのが「街」というのはあながち間違いやないわけね。じゃあ、寺山の『書を捨てよ、町に出よう』というのはおかしいやないか。寺山修司ともあろう人間が「町」と「街」をはっきり区別してなかったとは考えにくいのだけれど、どうも寺山の書を読んでいると、その区別が明確でなかったりする。ボクにはどうしても『書を捨てよ、町に出よう』ではなくて『書を捨てよ、街に出よう』と思えてならないんだけどね。それというのも『書を捨てよ、町に出よう』というのが出版された当時、頭演劇と銘打って、天井桟敷が劇場から頭に出て行こうとしていた時期で、ボクの「町」と「街」の違いというのも、どうもそこらに端を発している気がする。
 「町」は入って行くものであって、出ていく先が町じゃないんとちがうだろうか。どの映画だったか、忘れてしまったけれど、町から出て行く、町の外の荒野に出て行くラストシーンだった。と、すると、『書を捨てて家を出て町に入って行こう』じゃなかろかね。

 「町」と「街」に関連して、「道」と「路」。でも「みち」というときには「道」とはするけれど、あまり「路」とは書かないんだよなぁ。漢字の上ではあまり区別ははっきりできてないんだけれど、「道」はwayで「路」はroadというふうにイメージ的には区別は明確。どうもね、武士道とかの「道」と、はたまたシナトラの"My Way"であるとかディランの"Most Likely You Go Your Way (And I'll Go Mine)"と"Way"とが重なって、路上観察とかの「路」は、road movieであるとか、ケルアックの"On the Road"と重なる。
 ところがフェリーニの『道』は"La Strada"で英語の題は"The Road"、一方同じ「みち」と読ませるユルマズ・ギュネイ の『路』は原題はトルコ語で"Yol"、英語の題は"The Way"と来てるんだから、なんやようわからんようになってきた。La Stradaというイタリア語は英語にするとStreetなんじゃないかと。でもフェリーニの『道』がずっと先にあって、「みち」は素直には「道」だし、「通り」とするのも変だし、それに大芸人なんだから。ああ、ややこし。
 しかし森山大道が森山大路だったら、朱雀大路みたいで、これも変だしなぁ。

 

 


■2003/04/21 Mon■  先週のことなどつらつらと [長年日記]

 先週はいろいろあって、何か忙しかった。
 まずは課金払い忘れていてサーバーを止められた。そうなると、色々困ったことになった。《うらまご》もここも、まごれびゅも外に置いてあるから止まりはしてないんだけど、ボク自身は例えばここのURLはhttp://www.jcss.ne.jp/~maggot/maggot/diary.htmlとブックマークしてるから、いちいちhttp://mago.tdiary.netと打ち込まないといけなくなった。これがうざい。いきおい更新意欲が削がれてしまう。それに写真アップもできなくなってんだから、どうにもこうにも。
 サーバーが止められた日、つまり水曜に神戸へカジャ主催の反戦ライブを見に行く。その往きの阪神電車でふっと思いついて、窓からカシャカシャやってみた。デジカメをほとんど窓に押し付けて、目は窓を流れる風景、電車の進む方向を見て、あれだと思ったのが前を通り過ぎる瞬間にシャッターを押す。これがおもしろくて元町まであっという間だった。神戸の街ではちょっとだけいつものようにカシャッ。
 上屋劇場に着くともうすでにライブが始まっていた。ほとんどが関西のどこかのライブハウスで演ってるようなメンバーで、出てくるのが多いために1グループ1曲で交替。1曲だけだから、これだというナンバーを出してくるのでどこも質が高い。これで1ドリンク2300円でチャリティーだってんだからお得なライブ。反戦というテーマでもっとしんきくさいのばっかしかと思ってたら、全然そんなんとちがってよかった。今さら反戦なんてのを大上段に構えられたらしんどくてかなわんもんな。主催のカジャは3曲行ったあとに、にゃーのAVID。にゃーは緊張してなかったというけれど、いつもに比べて控えめ。他のメンバーに気圧された、なんて言うと彼女はきっと否定するだろうけれど。他がライブハウスでばりばり演ってるのばかりだったからAVIDにとってはちょっときつかったかも。でもそれなりに良かったんとちゃう。途中から受け付けのところでにゃーたちと遊んでたけれど、ふっとのぞいたらカジャがまたステージに呼びだされて、♪〜How many roads musu a man walk down〜なんて歌いだしている。それから"I Shall Be Released"だもん。みんなDylan世代なのだ。ボクも当然のようにDylan世代なわけで、♪〜I see my light come shining〜なんて歌ってしまってた。そうこうしながらも抜け目なくカシャッ....天空オーケストラ良かったよなぁ。
 その間の日はテニスばりばりで、土曜もはじめは甲子園行こうなんて言うてたのに、雨が降りそうって行くの取りやめたらきっちりその分テニス。こんだけテニスやったらもっと上手なってても不思議やないんだけど、自分では相変わらずのような。それでもたぶん上手くなってんだろうな。
 で、きのう日曜は唐組で一日が終わってしまって、『泥人魚』のことはまた今度。
 









 


■2003/04/27 Sun■  古都徘徊 [長年日記]

 まずは京阪の五条からスタート。高瀬川に沿ってちょっと南に下がる。ここらあたりは静か。高瀬川の水にカメラを向けるちょっと知ったかの観光客もちらほら。川べりではいかにも京都のお婆さん相手に、自分がそこら一帯を撮った写真を見せているのはほんとに長閑な風景。ちらっと見えた写真も鴨川と広い空を写しこんでいて美しい。ところがその高瀬川から一本裏に入ったら五條楽園。かつての遊廓。ひょっとするといまでもまだ営業してる家もあるのかも。京都というところは古いままにのこっていたりするから、簡単にかつての赤線跡らしき家が見つかる。早速みながデジカメ持ちだして構え始めたから、ちょっとあせる。やっぱりこいうところは一人で人目しのんでささっと写してあるかないと。仮にクレームつけられたところで一人ならなんとでも言い訳が着けられる。写った写真に「申し訳ない」感が写りこんでしまうのがおもしろいんだけれど。これって半ば観光客然としてるから写せるんだよなぁ。それでもボクもさっと目につくところだけはカシャカシャと写しては見たけれど、いまひとつインパクトに欠けるのはそんなせいかもしれない。歩くスピードも速いしさ。そうしていると前の方にちょっとヤバイ目のお兄様たちが何人かたむろしていた。その横を通り過ぎて、はっと見えたビルの入り口に《会●●鉄会》の金看板。さすがにこの金看板を見ると、高瀬川のせせらぎをいかにも楽しんでます100%観光客ですよぉーという顔になってしまう。
 退散しながらも裏鬼門を見つけると、ほんまの鬼門はどうなってんだという探求心がむくむくとわき起こってはくるのだけれど、その鬼門の方に回るところでキャッチボールをしていたお兄様の半そでからもんもんがちらっと見えるとそそとしてしまう小市民たち。でもなんだかんだって言いながら、任天堂の旧い社屋を見つけるとまた喜んでんですが、とにかく正面橋で鴨川を渡ってしまうまで緊張した。これに懲りずにまたこっそり一人で出かけてみようと思ってる。
 正面通りの突き当たりが豊国神社。かつてはこの正面通りがメインになるはずだった。家康のヤクザそこぬけのいんねんつけさえなければ。とにかくでかい鐘だった。が、その鐘よりもその鐘楼の天井画のほうがおもしろかった。どうも最近は歴史的な因縁話にはあまり興味がわかない。興味がわかないから、その鐘の写真も一枚も撮らないで、よこの崩れた壁や水たまりを写してる。
 ここから少しずつ北に上がって六波羅探題の六波羅蜜寺。入ったところに口からびーーっと仏さんを伸ばしている空也上人の教科書でゆーめーな像があると記されていたけれど、もちろん金払ってまで見ようとする連中ではない。タダなら見ます。六波羅ということはここら辺りが六道の辻と言われたとこだなと思っていたら、六道珍皇寺がった。小野篁(EgBridgeエライ!「おののたかむら」一発変換)が夜毎、古井戸に潜って地獄に行き、閻魔大王になり変わっていたというところ。ヒゲに言わせると、ここらは夜に歩いたらしんと静まり返っていてホンマに怖いところらしい。しかしこんだけ家があるんだから怖いことないと思うけどな。第一ここに住んでる人はどうなんねん。とは言え、ここから先はかつて平安時代には鳥辺野と言われて屍体を捨て鳥に食わせていたところだからな。あまりに歴史的因縁に興味ないなどと言いながらよう知ってるでしょ。梅原猛で勉強したもん(笑)
 東山通りの鐘園亭で餃子とビール。ここの餃子は1人前5ヶ100円で小ぶりながらも美味しい。結局6人前食って、さらに水餃子も食った。水餃子は焼とはちがう皮を使ってたし(当然か(^_^ゞ)、タレも別のを用意するくらい。とにかくお薦め。
 腹いっぱいになったところで八坂の塔の方に上がっていくと、ヒゲが、「ここやで」とシバ漬け屋を指す。30年前に、ヒゲにそこのシバ漬けが美味いから買うてこいと言うたきり。そのあと自分で買いに行って見つけられず、もうなくなったのかと思っていた。実に30年ぶりのシバ漬けを買って、それから中谷の豆腐。この間、ほかの3人は何してたんでしょね。八坂の塔の下におったけど。
 さらに上がっていって産寧坂。思いきり観光客多し。こう人が多いのもおもしろくてボクは好きなんだけどなぁ。観光客の裏側をウオッチするのって楽しいんだけど。でもあまりエエ女はいなかった。しかし他の連中の歩くの速いこと。もっとゆっくりじっくり見ればいいのに。ささっと行ってしまって、まぁ待たせとけばいいんですが。円山公園で休憩。
 白川に沿って祇園へ。ここも観光客いっぱい。他の観光地と違って京都の場合は観光客を見る楽しみがあってよろし。偽舞妓に一生懸命カメラを向けてるし、偽舞妓を連れて写真撮影しているいっぱしのプロは、偽舞妓に、「そこから一歩さがったところでこっち見て」などとポーズつけさせている。しまいには「アマチュアの人が撮ったはるからもう少しそのままでいたげて」などとほざいちゃってからに、はいはい、あんたはプロですワ。しかしそのような決まりに決まっただけの写真なんか撮ってておもしろいんかね。絶対におもしろくはないと思うけどね。かつて舞子さんの撮影会に行って撮ってきた写真を四つ切りにして喜んでるのがいたけれど、ちらっと見たところ全然。「うあっぱりニコンは写りが違う」はいはい。やつらに言わせりゃボクの写真なんてゴミみたいなもんなんでしょ。実際、ゴミばっかし写してますが(苦笑)
 さて祇園の甲部のほうにも回って、いかにも京都というようなお母はんが一人でやってる喫茶店で休憩して、さて帰りました。なんてもったいない。時間はまだ5時過ぎ。抜群の西からの光が射してるのに、せっかく連休の日曜の雑踏があるんだしね、このまま帰れますかいな。もう一巡り。
 









 


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まごアン