きょうは涼ちゃんの真似っこして、文藝春秋を買って、すぐさまサンマルコで『蛇にピアス』を読みきってしまった。涼ちゃんが「じきに読めた」などと書いていたから、どうせ当世風のすこすこの改行だらけ、「 」だらけの文章だろうと思ってたら、さにあらず、けっこう詰まってるんだよな。もうひとつの芥川賞『蹴りたい背中』のほうはまだ読んでないけれど、そちらもけっこう詰まってる。中上の『よしや無頼』なんかとは比べ物にならないけれど、あれは中上がわざとあの非改行の形式をとった確信犯的なところある。 【な】じゃないけれど、非「段落文体」は、いまの文学というか小説の堕落だとボクは思ってるから。思うに、売れるんだったら質より量って、小説についても生産性が表に出てしまう。鶏インフルエンザや狂牛病騒ぎなんてのは生産性ばかりを追いかけたしっぺ返しそのものでしょ。それがこうした出版業界でも同じだって。出版だけじゃない。音楽も、映画も、売ることしか考えてない。売れるのなら何だっていい。 だからつくる側は安易な道を選ぶ。原稿用紙何枚なんて指定されたら、ほら、ボクらが作文やレポートでやった手を使う。つまり「〜だ」と書くところを「〜である」として2字かせぐ。そしてあわよくば、最後の1文字が次の行にかかって、そこで改行すると、縦20字のうちの15字ほど、わざわざ埋めなくて済む。そんなところに非「段落文体」が発生する。 もちろん受け手にも責任はある。一度、携帯メールを、PCメールに転送してみればよい。いかに文章になってないか。携帯でとてつもなく長いメールだと思っても、ほんの数行で、へっ、これだけと思うだろ。少し前に「携帯で愛は語れない」と書いたけれど、携帯によって文章を失っていく。文章を失ってしまうと、文章を求めようともしない。活字の固まりを見た瞬間に逃げ出してしまう。 要するに、どっちがニワトリでどっちが玉子だか知れないが、生産性をだけ追及し、その一方でほんものを求めることを放棄した人間たち。それは文学だけじゃなく、映画、音楽もそう、そして教育も。そうしていると、人インフルエンザに罹った人間は生き埋めにされかねない。
桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。