今年はね、これっていつでも撮れるだろうなんて、妙な安心感ね。これまでなら、きょう、撮りにいかないとまた仕事で撮りたくても撮れないじゃないかと、追立てられて夢中で撮り歩いたけど、まぁこんな暑かったら、いいかぁって。それが逆に、こんなにだれとっていいのかなんて焦ってみたりするけど。いまちょっとflickrで、去年のいま時分は、どんなん撮ってたんだろうと見てみたけど、やっぱり暑すぎて撮れてない。焦ってもどうにもならんよね。それよか、読書ねw あ、これは大事よ。森山大道があんなに撮れるってのは、どこかで文学してるから。そこのところを、見落としちゃってるよなぁ。何を、どう撮るかなんてのは、表現することにちがいないのだから。 それできょうは、ほんとカラダに力が入らないというか、アタマもぼぉーっとしてたので、寝転がって久しぶりに中上健次。をい、アタマ、ぼぉーっとしてるときに中上はないだろうw あ、いや、短編だから。『楽土』 寝転がってパラパラと見てたら、『楽土』の書き始めが、牡丹の真っ赤に燃え上がってとか云々だったから読み始めた。こういうのは、ちょこちょこと、文章の中に色が見えてくるんだよねぇと、よくヤモと空いてる時間にしゃべったりしてたのにね。30分とかからずに読み終わり。いいねぇっていうか、ぎゅぅっとはらわたかどこぞを握りつぶされた、あるいは水の入ったペットボトルで後頭部を殴られたって感じ。重い。重いのは、それは中上だからしゃあないでしょ。調子にのってもう一篇読みかけたけど、あ、これは『鳳仙花』のプロトタイプだなって、でもほんとアタマがぼぉとしてたから、それはほとんどアタマに入ってこない。しゃあないか。そうね、4月からこっち、ほとんど本は読めてないから、あの軟禁状態というのは本を読むのには都合よかったんだよね。機を見つけて読むようにしましょ。 そうそう、書き忘れるところだった。「牡丹の真っ赤に燃え上がって」というのに、反応してしまったのは、いま、ほとんどモノクロでしか写真撮れてない。こないだね、ヤマダの写真見てて、いちばんいいなって思ったのが、ケバい、ケバすぎるくらいの花の色。あ〜、とても、平和ボケな花の写真じゃないのな。ケンカ売ってきてるよ。こんな写真、撮りたいよなぁってすごく思ったのな。その写真と、中上の「真っ赤に」というのが呼応したのかもしれない。ヤマダはね、ヤツのトイレに何冊か、文庫やらおいてあった。こないだ、ヤツんとこでウンコしながら、そこにあったデヴィト・リンチの映画の本をパラパラと見た。ヤツは何を読んでんだろ。でもあんなふうにトイレに本を置いて少しでも読むってのはいいことですよ。それがヤツの写真にも出てるんじゃないかな。トイレの水あふれさせて、その本をビショビショにしてしまってごめんなさい。
それと、もうひとつ、ヤバいのは、尿管結石。尿管結石そのものはたいした病気じゃない。あ、ただね、あの父親も尿管結石で、あれは、ちょうどこの真夏、父親が五十前、ボクがまだ大学生で帰省中のこと。夜中に痛さで呻いているのをクルマで病院に連れてってやった。次の日、炎天下にバイトにカテキョー行ってたら、クルマで迎えに来てくれた。別に息子がバイト行ってるの迎えになんか来なくてもいいのにね、夜中に病院に連れてってもらったのがうれしかったのか、自分のうれしさをこっそりそういうふうに表現する人だったんだな。それから数日して、こんなん出てきたと、金平糖のような金色の石を見せてくれた。どうしてそんなもの採ったんだと聞くと、しょんべんするときに金魚の網にしたと言う。変なヤツ。その親父が尿管結石で苦しんだ年は、もうとうに過ぎたけど、いまマジやばいって。写真撮り歩くにも、水を持ち歩いて、しょっちゅう水飲んでないと^_^;
炎が揺れていた。咲き萎れた幾重もの緋色の花弁は、風に揺れ、彼の眼には、炎に見えた。
なんて書き出しできたら、ついふらっと読んでしまうでしょ。これはきのうの日記に書いた中上の『楽土』。きのう書くときに手元になかったので、これはどうしても引用しておきたいと思った。きょうもまた一篇『化粧』を読む。
一生懸命になって、周囲を疲れさせるタイプの人間がいる。しばらく消えればいいのにと思うけど、かの人にとっては、それすら不安で、一生懸命になろうとするが、空回りしてしまってるのが、まさにカゴの中のハムスター状態。くるくるくる。そんな様子が見え見えなので、つらい。
あ、『化粧』とは全然関係ないところにとんでしまった。文庫の裏表紙に書かれている「敢えて挑戦する力業」の通りのごりごり加減が、いまの耄けたアタマに殴り込みをかけてくるような気分。 「後になって寝化粧、死化粧という言い方があるのを知ったのだが、」 これもこの『化粧』からずれるかもしれないが、「化粧」というのはほんとにエロチックだとつくづく思う。その意味で「化粧」を捨てた女とは寝る気がしない。
酔芙蓉というのは実際にあって、朝に白い花をつけていたのに、夕には赤く色づいている、それがまるで酒に酔って赤くなったようなので酔芙蓉と。いいねぇ、こういうネーミングを粋というんだね。さて夏芙蓉
体をよこたえたままその礼如さんの写真を見て手を組んでオリュウノオバは「おおきに、有難うございます」と声にならない声でつぶやき、あらためて家に入ってくる夏芙蓉のにおいをかぎ、自分にも夏芙蓉のような白粉のにおいを立てていた若い時分があったのだと思って一人微笑んだ。中上健次『千年の愉楽』
あ、あと2つ、書こうと思ってたことがあるけど、それは、お取り置きしておくことにしよ。
この写真ね、おとといの日記にも横に貼り付けたんだけど、9時頃にカジャのライブに行こうとぽくぽく道を歩いてたら、ポツ....ポツ...ちっ、雨かいって、でもウソみたいに降り出す前の話。ハザドの1つ手前の信号まで来た時に、道路の向かい側の歩道を走ってく自転車あり。思わず、カシャっと、カジャのライブ、あうううう、しょもないオヤジギャグっす^_^; いえ、ただ自転車走ってきて、バックが白い工事用の壁だったので、あ、こりゃオッケーっと思って、ちゃんとカサさしてるのも認識しておったよ、だから、うりゃっとばかりカシャジャミン(^O^) そしたらこれだもん、正直こんな写真が撮れていいのかと思うね。単なるいきおいだけで、ほとんどカメラまかせ。ラッキーショットもいいところ。いまさらビギナーズラックってわけでもあるまいに、なめてかかってしまうよ、ったく。ほんと、ごっちゃごっちゃ構図がどっちゃらこっちゃら考えてるより、さっさと写せってのね。とにかくカシャってやっとかないと、ラッキーショットも有り得ないんだから。 ぅ〜ん、不思議だなぁって思うのはねぇ、だいたいぼぉっとしてるからカメラの設定なんかは、その前に使って変えたままになってることが。なのに何故か、このときisoを3200に歩きながら変えてんだよねぇ。ライブでちょっと撮ろうなんて思ってたから変えたんだけど、このショットのために変えたような、だからこれなんかが神懸かりだってぇ〜の。これ、たぶん3200じゃないと無理でしょ。その分でいうと20D様々なんだけど、別にカメラのせいでもなんでもなくて、結局のところ、いつでも臨戦態勢をひいてるからというのが正解でしょ。だから、このショットも写神様のご褒美。だって、暑くて写真なんか写そうって気にならないで、イジイジイジイジイジしてて、それでもなお、臨戦態勢をとってたことへのご褒美だって思うの。
でもやっぱりこんなふうに撮れてしまうのは申し訳ないなと思うよ。