きのうの夜のツイッターでちょっとCDと文庫の話になったのでまとめておく。 話の始まりは、最近になって、ヤフオクで文庫をい売りに出してるのだが、文庫にはそう愛着があるってものじゃないなぁという感じがあって、その分でいくとCDにもさほど愛着がない。別になくてもいいや、特にCDはCDプレーヤーを通して聴かなくてもiTuneで十分じゃないかと思える。 で、一番本を読んで、一番音楽を聞いた二十歳ころ、つまり今から40年前を思い起こしたら、まずレコードというのは高かった。一枚2500円と今とさほど変わりがない。だから一枚のレコードを貪るように聞いた。そしてジャケットの隅から隅まで見た。その隅から隅までということになると、CDはそういうわけに行かなかった。字が小さいから読む気もしない。それとジャケットも小さい。30cm四方が12cm四方に閉じ込められた。単純に1/6の面積になった。それともうひとつ、StonesのSticky Fingers のようにジッパーそのものが組み込まれるというような楽しみがなくなったのが大きい。音質がどうこうじゃない、ボクの場合は。 本で考えると、その70年当時に文庫というのはクラシックな文学が並ぶものだった気がする。そして単行本から文庫化されるのに何年もかかった。だから単行本を手にせざるを得なかったという事情がまずあった。もちろん文庫は安かったから、文庫で手に入るものは文庫で買った。いまは文庫化までに3年らしいがもっと早いんじゃないか。そして文庫化されるステータスのようなものも消失した気がする。 で、何でもかんでも文庫化されるようになった時期と、CDが出てきた時期が重なる。つまり、消費社会となって行った時期なんじゃないだろうか。もう貪るように1枚のレコードを聞いた、レコードが高くて買えないからジャズ喫茶やロック喫茶で聞くなんてことももうなくなった。と、同時に本は本ですこすこ、行間だらけになっていった。 アナログレコード→CD→ネット配信、単行本→文庫本→電子書籍。なんだか符合して感じられる。この間に位置するCDや文庫本に愛着を感じられないのだ。アナログレコードや単行本にはモノとしても存在感があったけれど、CDや文庫本にはその存在感が希薄なのだ。聞ければいい、読めればいい、ただそれだけの存在でしかない気がする。そこに刻まれたコトどもも希薄になっていったかもしれない。そういうのを求めない時代に移り変わった、とは言いたくないけれど、そう認めざるをえない。あと何十年か経って、また評価されるのかもしれないが。 さて、ぼく自身について言うならば、もう目の前に起きていることを追いかける気力はなくなった。それよりもこれまでに蓄えてきたことを消化するのに精いっぱいで新しいことを求める余裕が無い。懐かしい、という気持ちに耽ろうという気持ちはさらさらないが、これから先に現れてくるだろう本なり音楽なり、それらよりも、ここまでツン読してしまったもののほうが自分にとって意味があるように思える。 というわけで、音に関しては、電子化されたものでいい。いまさらターンテーブルを引っ張り出してこようとも思わないし、暗い部屋でタバコの煙にまみれて、頭を縦に振りながら聴くなんてことももうないだろう。アナログレコードはモノとしてあればいい。電子書籍については、残念ながら否定的でしかない。というより、電子書籍化されるようなものより、これまでにツン読された本たちに埋もれていたい。