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■2000/02/24 Thu■
古事記やね
「昼飯食いに行くんやったら連れてってよ」と小池。
「あ、ボクら歩いて行くで」
ぐははは、小池こけそうになっとった。まぁむげにふるのもなんなので、小池の車で食べに行って、帰り散歩しよかということに。
しっかし小池うるせぇーんだよぉ(-.-;) メシ食うてる間も、ハードディスクがどうたらこうたら、くさるほどHD買うて何やっとんのだよ。ん〜(-"-) うははは、どうせ小池ここ見ないだろ(笑) う〜、しかし見たら切れるだろなぁ。ほんま扱い大変なんだから
小池を振りきって、ヒーさんとまずは等乃伎神社。ここでもヒーさんの蘊蓄に悩まされる(笑) しかしあの小池の大風呂敷のあとでヒーさんの蘊蓄なんて可愛いモンよ、というか逆に心地よかったりすんだよねぇ。
この等乃伎神社にはむちゃくちゃ高い木があって、その影が淡路島まで届いたという伝説があるらしい。で、それは何かというと、春分の日にその高い木の影で2点とったら、まずは東西の直線が取れるわけね。その2点で夜に火を焚いたら、古代の話だからその2つの火が見えるわけで、それが重なって見えたら、東西の一直線が引けるっていう話。古代の知恵だなぁって感心。ところで、ヒーさんは春分の日と言うたけど、神社の能書き読んでたら、夏至の日にちょうど等乃伎神社から見たら高安山から太陽が昇るらしくて、なるほどね、そういう位置関係になるなぁってそこでも妙に感心。で、素直に春分を夏至に訂正するヒーさん、誰かと大違い(笑)
富木から北信太まではずっと以前は一面畑や田圃で、そのあとにがちゃがちゃと家が建ったから歩いてても全然おもしろくない。それに行政が全然金かけてへんのが丸わかりで、とにかく整然とした町を作れというてるのなくて、あいつらバカだから、すぐ区画整備だとか、土建屋が儲かるようなことしか考えよらへん。そうじゃなくて、少なくとも清掃事業にもっと力入れたらどないやねん。
ボヤキはそれくらいにしといて、いや、しかし歩いてたら、ほんま犬の糞多いんよねぇ。葛の葉神社のとこでもでっかい犬の散歩さして、これまたばかでっかいうんこさせて、手にはいちおうスコップとビニール袋もってんだけど、やらせっぱなし。こらっ、おっさん(-"-) と怒鳴ったたら良かったかなぁ。とにかくきょう歩いたコースは犬の糞と空き缶だらけでうんざり。
気をとりなおして、北信太の町なんかね、うーん、ここ左曲がったら「うしろ姿」のとこだよなぁってこっそり思いだしたりして、それで葛の葉神社ね、やばい話はおいといて。信太山の狐が阿倍野のなんとかいうのに助けてもろて、人間に化けて結婚したのだけど、何年か経ってそのことがバレて消えていくとか、死んでしまうとかいう話。というわけで、狐が祀られてて、静かでそっけなくてよかった。でも風が強くて強くて寒かったなぁ。
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■2001/02/24 Sat■
BEASTIE BOYS
ILL COMMUNICATION
歩いてメシを食いに行った帰りに、ひーさんがちょっと市場によっていこうと言うので、ついでだからおしっこして行こうとまっすぐトイレに行って、ひーさんはそのままほっといて、一人帰りかけたところで持っていたはずの黒のビニールの袋が無い。やばいやんか、あの中には金いっぱい入っとるやないの。と、あわてて走ってもどったら、市場の入り口でひーさんとすれ違って、そのときにボクは走っていたものだから、水たまりもばしゃばしゃ水をはね飛ばして、「何、すんねんなぁ〜」もうと喚いているひーさんのことは相手にしないで一目散に市場に入ったら、さっきには気がつかなかったエスカレーターが左側にあって、そのエスカレーターに乗って1階だけ上がったら、すぐ左手に出口があって、そこから外に出て上の道路をちょっと行ったところにトイレがあったはず。だがトイレがなくて、元来たほうに帰るのも癪なので、別の入り口から入ろうとぐるぅーっと回ってみたら、どんどんその市場はいつの間にかジャスコのような大きな建物に変っていて、どんどんその建物からは遠ざかって行って、信号の有る大きな交差点がった。その交差点を渡った向こうの小高い丘の上にその建物が見えたので、丘に上がっていく道を上がって行く。そうか、このあたりが新しく開発されて誘致されたビルがいくつか建ち並んでるところなんだと、感心しながら上がっていくと、道はどんどん細くなって、しまいにコンクリートの滑り台のような道になってしまって、おまけにニスかなんかでコーティングしてあって、つるつる滑る。滑り台の両側を手でもってなおも上がったら、また入り口にたどりついた。今度は間違えないように左側のエスカレーターを上がって2階で外には出ないで、3階まで上がったら、その先が木でできたはしごのような階段になっていて、たくさんの人が上を向いて上がっていく。そうか、このはしご状の木製階段は一方通行なんだと気がついた。上に出ると、そこは砂場になっていてその砂場に材木が置いてあったので、何の気なしに踏んだらばきっと音をたてて折れてしまった。ボク、知らんよぉ。そんな木、乾きすぎてばきばきになってんじゃないかと、そのままほっぽらかして、しかしここじゃないなぁ、そのトイレというのは。下りの階段を探してたら、下りの階段があるにはあったが、その階段も踏んだらばきばき折れてしまって、仕方ないなぁ。そこにいたじじいが何か言っていたが、記憶に無い。だらだらとした坂を通りすぎて行くと、黒のクルマがやってきて、遅いから迎えに来たでぇと、あ、そか、そか、メシ食いに行くときはその黒のクルマに乗って、そこにいつものポーチとかと一緒にその金の入った黒のビニール袋も置いて行ったんやんかぁと、クルマに乗り込んで、後ろのシートで探して見たけどいつものポーチはあったけれど、ビニール袋がない。あの袋、あの袋の中に入れてある金がなかったら、と考えたら、今月真っ暗やんかと、おい、さっきのところに戻ってよと、言うと、クルマは一つ目の信号のところで右折して細い道を入っていくと、そこはさっき2階から外に出たところで、なるほどこいうふうになってるんかと感心したけれど、やっぱりその問題のトイレはない。
あ、そうそう、2/11からこっそりと
さるさる日記
借りて、そっちにも書いてんだよなぁ。
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■2004/02/24 Tue■
『路地へ?中上健次の残したフィルム』
こないだから中上健次ネタばかり。さしあたり第2次中上萌えってところか(-.-;)
それであまりにもタイムリーにケーブルの日本映画専門チャンネルで『路地へ?中上健次の残したフィルム』というドキュメンタリーが放映されてた。青山真治監督。聞いたことあるような、ないような。
さて最初、クルマでぐるぐる走りまわってるの、あれ、これどこだろうって思ってたら、三重県の松阪。つまり紀州出身の映画作家=井土紀州が、松坂をスタートして、なんで松坂かわかりませんのですが、しばし42号線を南下して新宮を目指して走るのが続く。
う〜んとですね、この最初の10分ほど、非常に違和感があるんですがね。同じなら和歌山スタートで枯木灘を映してほしいんですよ。そして古座。そうでないと《紀州サーガ》にゃならんでしょ。確かにね、秋幸の姉=芳子が名古屋に出ていくときに木ノ本(熊野)まで鉄道で行って、矢の川(やのこ)峠をバスで越えて行ったというくだりがあるんだけど、その矢の川峠のトンネルを抜けるのを、まんま延々と映してんだけど、これは絶対に違う。新宮というのはそれほどに遠いのだと言いたかったのだろうか。
実はボク自身、1967年(昭和42年)に紀伊半島を自転車で一周している。そのとき木ノ本と尾鷲の間の矢の川峠を延々自転車を押して上がった。もちろん舗装などしてなくて、トンネルもなかった。芳子を乗せたバスが走った道はそのような道で、決して今のようにしゅーっと走り抜けられるんじゃなかった。 ついでに1967年当時で国道42号線は、和歌山-白浜、新宮-熊野以外はほとんど未舗装で、ちょうど太地あたりでは、雨だったので、走れないくらい自転車のタイヤが泥に埋まったのだ。
たまたま須野まで乗せて欲しいという若い男がいたのだろうか、その須野まで乗せてやって、そこから先に道がないという。この矢の川峠の下の海岸線に沿った道は長い間貫通してなかったんだけれど、いま現在できちゃってるよ。撮影は1999年だそうで、その時は確かに道の果てなんだけど。
どうも新宮=『地の果て』なのだということを言いたかったのかね。『地の果て 至上の時』と中上が書いた『地の果て』というのは確かに空間的な地の果てという意味も込められてはいただろうけれど、それ以上に時間的な地の果てだったんじゃないか。確かに東京の人間からすると、名古屋、大阪からも4,5時間もかかる地の果てという印象があるんだろうけど、ボクのように大阪の人間から見るとさほど地の果てという感はないんだよ。
須野に至る新鹿(あたしか)は中上が一時移り住んだことある地なんだよね。このドキュメントではなんもなかったです。しかもね、松阪から熊野までやってきて須野に寄り道するんだったらね、なんで有馬をすっ飛ばすんだよって。有馬、古座というのは紀州サーガにとって、秋幸にとって、父の地、母の地なのにね。最初の10分ほどはほんと余計だね。
さて、いよいよ新宮。新宮の町を、歩きながら例えば神倉神社や、巨木の下で『地の果て 至上の時』の一節を朗読する。廃校の中で朗読するなんてちょっと考えものだな。そこに、中上健次自身が16mmで撮影したフィルムが挿入される。なるほど臥龍山はこういうふうに新宮の町を分け、切通というのはこうだったのだと。そして路地、その井戸。そしてまた人たち。。。
その16mmのパート
は
よかった、なんて言うと元も子もないんだけれど。このドキュメンタリーが撮影された1999年というと、すでに路地も臥龍山もきれいになくなってしまってる。ボクの第1次中上萌えの1994年だったか、そのときにもすでになくなってしまっていた。それはいいことだったのか、どうなんだか。その『地の果て』に『至上の時』がおとずれたのだろうか。なんだか、このドキュメンタリー全体がセンチメンタリズムにすっぽり包み込まれているようでね、結局、最初から最後まで、どこかボクがイメージする中上の世界とは違っていた。
1967年に新宮に行ったときに、もちろん中上健次の「な」の字も知らないで、泊っていたYHがどのあたりにあったのかさえ、もう覚えてはいないけれど、ただやみくもに歩いて新宮の浜まで出た。いま考えてみると、路地のあたりもわけのわからなまま歩いていたのかもしれない。その新宮の浜は、ボクの記憶のどこかに荒れた光景としてかすかに残っている。
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