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うらまご/まごまご日記/まごっと/まごれびゅ/P-FUNK/maggot

1998年
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■1998/03/07 Sat■ 

♪ いつものように幕がぁ開っき〜〜
をい、ふざけてる場合やなかとぉ〜 廊下を歩いてたら携帯が鳴って、だいたい午前中に携帯鳴ることなんてまぁないねんけど出たら、KATSUさん
「キョンさんが亡くなったよ」
予想はしてたことだけど、ちょうど4週間前のことかぁ、話聞いてたらもっと持ちそうな調子だったから、あのときこれが最期だなぁなんて思いながら病院をあとにしたのをちょっと不謹慎だったかなと思うてた矢先のこと。わかってたからショックというわけではないけど、やっぱりね、ショックはショックや。じんきょんがいたから走り続けられたんやしとかいろんな想いが頭をめぐってた。
月曜の時間割を見たらちょうど空いてたので、どうせ行くのならお通夜もお葬式も出たげよと思って、急遽休みを出して、そこからしゃかしゃかと計算。えいっ、どうせ東京まで行くのなら、ねえさんの土曜日も! わぁみんなビックリすっどぉーと考えたら、気が重い東京行きが楽になった。
あわてて家に帰ってとにかくORPにアクセスしてみる。じんじんのやけに落ちついたログが逆にひしひしと伝わってくる。それから地蔵さんとちょびにも連絡入れてやった。見送ってやるんだったらみんなでわぃわい見送ってやったほうがきょんらしくてええやん。
あと、きのうの夜中にayacoにつくってやったボードの不具合をちょっと手直ししてたら、ICQできよみと会った。きょんのことをちらっと話して、黙ってよかなと思うたけど、誰にも言うたらあかんぞと、今晩行くと伝えた。
いつものようにすっかり地下鉄気分で新幹線にとびのって荻窪に着いたんが7時前。風が強くてめちゃ寒い。大阪はむちゃぬくかったのに、富士山を過ぎたあたりから曇り始めた。ちょっと時間が早かったし、駅のそばで天丼を食べてドトールできよみを待つ。恋人を、あぁちゃうちゃう、愛人を待つ気分(笑) その間にOSAにはウソっこの工作電話入れて、「うううさぶぅ〜〜い(これはほんま) 魚釣りに来てんけどぉぜんぜん釣れへんでぇ・・・・」なんという大ウソ(自爆)
PANCHできよみねえさんとOSA、なみこが来るのを待つ。PANCHはこないだとんとんが受験のとき連れてきてもろたらしいねんけど、ヒゲのマスターとしゃべってたら、のりこから電話が入って迎えに行ってやる。まいちとよしきが一緒にいてたまげとったなぁ。この一瞬だけでええよなぁ。それから手はず通りにOSAから携帯が入ってきて、なみことくっちゃべりながらyinyanに登場。こういう登場のしかたってほんま素敵、大好き。
「大阪に丸の内線走ってるんですかぁ(爆)」
フジコはきよみと迎えに行ったったのに、お初やったので、ちょいスカ。しかしかっこええやんかぁ、このみ、このみ、にょほほほぉ。ってか(-"-)
たばこを買いに出て、あちゃこちゃ探し回ってやっと見つけて戻ってきたら、A.K.Oがyinyanの前にいる。きゃぁあああと抱きついたった/(.^.)\ 
で、こっからさきはなみこが「東京日記」書くというし、それにボクはなんといってもお葬式にやってきた人だから、不謹慎、不謹慎。あとはまかしたぞ、なみこ。

■2002/03/07 Thu■ 

Rose Royce
STRIKES AGAIN
 きのうのラジオでぼちぼち釘煮の季節やなぁ、と言うてたら、きっちり晩ごはんに釘煮が乗ってたのでむちゃうれしかった。でも釘煮が乗っていてもきのうはベトナム風鍋だったのでご飯がなくて、こういうミスマッチなところが何とも言えないっしょ(苦笑) それできょうこそ釘煮と、期待してたら、もうちょっとしか残ってなかった。昼に食ってしまったんだってさ。なんちゅうこっちゃねん。でも釘煮あったらご飯が最高に美味い。
 釘煮といえば、忘れられないのが神戸の地震の時のこと。地震直後の混乱も三月末頃には収まって、もう4月になったらよう来んからねって、いつも見に行ってたところを回ったら、お世話になったからと婆ちゃんが作った釘煮をもらった。状況も手伝ってか、その自家製の釘煮はいままで食べた釘煮のなかでいちばん美味しかったし、生涯忘れられないな、と思う。ほかの公園(まだ3月末にはけっこう被災者テントがあった)では被災者のおっちゃんたちが買ってきてくれたホルモンで宴会もやってくれたりもして、自分のテントをその横に張って一晩泊ったりもした。
 そんなことやら、配給された被災者弁当もらったこととか、話してたら、「なんだ、悲惨だと言いながら、けっこうまともなんじゃないか」と返ってきたのには驚いてしまった、というかムッと来た。
 被災地を知らなかったらそんなふうに思うのかな。被災者なら悲惨な生活してるものだと感じてたのかもしれない。確かに地震直後2週間近くは食べるものもまともに無い状態で、もちろんインフラもずたずただった。
 蛇足だけれど、阪急の六甲の駅の北側(山側)はほとんど被害がなく、水道もすぐに復旧していた。逆に南側(海側)は、長田、東灘に並ぶくらいもっとも被害が大きくて2月の10日頃には給水車が出ていた。そんなときに、六甲の駅の北側でで水で車を洗ってるのを見たときには切れそうになった。被災者が車を洗うな、という理屈は通らないけれど、あまりに無神経過ぎると思った。
 ボクが決まって見舞いに行ってたのは六甲から葺合のあたりだけれど、そこでも葺合の大安寺商店街などは2月中旬にはかなり元気を取り戻してきていて、ガスはまだ復旧してなかったから、魚屋では炭火で魚を焼いて売ってたりしたから、大阪からわざわざ手弁当持って出かけなくても、そこの市場で焼き魚を買って、そこらの公園で食ったりもした。あれも美味かったなぁ。
 そんな状態だったから、3月になると、もう物資の供給も途絶えていたから、ひたすら被災地を回って、おっちゃんらの愚痴につきあったりしてたのだ。もちろん行政からは被災地弁当の配給も続いていたのだが、ほとんど毎日同じメニューで冷えきった弁当などはいきおい余ってしまって、どうせ捨ててしまうから食べるか?と言われて食ったりもした。
 ほんと2週間ほどは食べるものどころか、飲む水にさえ、まともに無い状態だったから、「子どもがな、そこらに落ちてる空き缶拾うて、飲んどるんよ。わしら、いらんから、そこ持って行ったってや」とおっちゃんに泣かれたこともある。でもそんな生活を1月以上も続けられるはずがないし、まして経済的に余裕ができれば、配給された被災地弁当より、ぬくいうどんでも食べるだろう。それを外から見て否定したら絶対にアカンと思う。
 もちろん3月末になっても、自宅が半壊状態の人でも、寝るのは怖いと学校や被災地テントに寝泊まりしてたし、保証をめぐって夜はテントに泊っている人もいた。そして昼は自宅に戻って釘煮を作っていたのだ。神戸の春はやっぱり釘煮だよってことばに再生の力強さをすごく感じてしまったのだった。
 釘煮を食べるたびにそんな思いが蘇ってくる。パワーあげにいったつもりで、逆にパワーもらって帰ってんだよ。

 ※釘煮 いかなご(ジャコ)の甘露煮


■2004/03/07 Sun■  ヒトインフルエンザ

 3月になったとたん、ぱたっ(。_゜)〃
 何にもないんじゃなくて、3月になってあったかい日が続いたでしょ。だから昼間はテニスですワ。そして夜はパンサー、つまりMacOS 10.3.2にしたし、きょうはハードディスクも増設したりして、なんだかんだって、忙しいなんて言うとどつかれますが。その間に読書三昧。でも慢性の睡眠不足のために、よう寝るしな。ん?よう寝るんだったら睡眠不足とちゃうか、いや、確かに睡眠不足だ。夜にベッド入って本を読みかけたら数行ともたずに寝てしまってる状態。だからってわけでもないのだけれど、ビデオ(映画)のほうはちょっとお留守でね、アカデミー賞なんてのははなっから興味ないからどうでもいいわけで、気がついたら古くっさいのばっかりだな、この頃は。

 きょうは涼ちゃんの真似っこして、文藝春秋を買って、すぐさまサンマルコで『蛇にピアス』を読みきってしまった。涼ちゃんが「じきに読めた」などと書いていたから、どうせ当世風のすこすこの改行だらけ、「 」だらけの文章だろうと思ってたら、さにあらず、けっこう詰まってるんだよな。もうひとつの芥川賞『蹴りたい背中』のほうはまだ読んでないけれど、そちらもけっこう詰まってる。中上の『よしや無頼』なんかとは比べ物にならないけれど、あれは中上がわざとあの非改行の形式をとった確信犯的なところある。
 【な】じゃないけれど、非「段落文体」は、いまの文学というか小説の堕落だとボクは思ってるから。思うに、売れるんだったら質より量って、小説についても生産性が表に出てしまう。鶏インフルエンザや狂牛病騒ぎなんてのは生産性ばかりを追いかけたしっぺ返しそのものでしょ。それがこうした出版業界でも同じだって。出版だけじゃない。音楽も、映画も、売ることしか考えてない。売れるのなら何だっていい。
 だからつくる側は安易な道を選ぶ。原稿用紙何枚なんて指定されたら、ほら、ボクらが作文やレポートでやった手を使う。つまり「〜だ」と書くところを「〜である」として2字かせぐ。そしてあわよくば、最後の1文字が次の行にかかって、そこで改行すると、縦20字のうちの15字ほど、わざわざ埋めなくて済む。そんなところに非「段落文体」が発生する。
 もちろん受け手にも責任はある。一度、携帯メールを、PCメールに転送してみればよい。いかに文章になってないか。携帯でとてつもなく長いメールだと思っても、ほんの数行で、へっ、これだけと思うだろ。少し前に「携帯で愛は語れない」と書いたけれど、携帯によって文章を失っていく。文章を失ってしまうと、文章を求めようともしない。活字の固まりを見た瞬間に逃げ出してしまう。
 要するに、どっちがニワトリでどっちが玉子だか知れないが、生産性をだけ追及し、その一方でほんものを求めることを放棄した人間たち。それは文学だけじゃなく、映画、音楽もそう、そして教育も。そうしていると、人インフルエンザに罹った人間は生き埋めにされかねない。


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