30年前に、ヨーロッパに旅行したとき、そのときはイギリス、フランス、スペイン、スイスを1ヶ月かけて旅行したんだけど、こんなに美味いクロワッサンがあったのかと驚嘆し、はたまたガーリックの味が忘れられなくて、夢よもう一度ってわけなのです。
それは夢にまで見た(そ、そんな大袈裟な)、カサ・ボティン※のガーリックスープが30年のときを経て目の前に出てきたときは、そりゃあ感激しましたです。少しどろっとしたスープにスプーンを入れて口に運んだとき、臭くはないニンニクの香りとともに口の中にひろがるまったりとしたこくには涙が出てきそうになった。が、感激したのは、そのガーリックスープの美味さにあったのでなくて、30年の時間を経てもう一度口にできたというほうに感動していたのだった。 考えてみると、この30年間という時間は残酷ですよ。要するに涙を流すほどのガーリックスープでさえも、特別な味とは思えなくなってしまっていたのだ。
この30年間の間にどれだけ日本の食が進んだか。例えば、スパゲッティは、いつの間にかパスタと呼ばれるようになり、スパゲッティといえば、ナポリタン(なんてのは現地には存在しないらしいのだが)という、良く茹で上げた18mmくらいのスパゲッティにハムとたまねぎ、あとピーマン、ひどいときにはニンジンなどが炒められ、トマトピューレじゃなくて、トマトケチャップで味付けされたイタリア風焼きそばだったのです。なのにアルデンテなんていう言葉まで一般に通用するようになって、日本のスパゲッティは変わってしまった。 コーヒーしかり。コーヒーも30年前以前にはほとんど大半がネスのインスタント、それもフリーズドライの顆粒じゃなくて細かい粉(いまでも売っているが)をスプーンに一杯。それに今じゃ信じられないだろうが、イチゴにかける練乳を入れる、そんなコーヒーを日本人は飲んでいたのでした。インスタントでないコーヒーを飲みたかったら喫茶店に行けというようなありさまで、ようやくその30年前になって、家庭でもぼちぼちコーヒーをドリップで淹れるようになったころだったのです。だからエスプレッソでブシュっと抽出されたコーヒーが30年前のヨーロッパ旅行のときには、どれだけ新鮮で、美味く感じてしまったものか。
結論を言ってしまえば、食い物に関しては、わざわざヨーロッパくんだりまで出かけなくても、日本で十分。日本のイタ飯がどんなに美味いか。イタ飯だけでなく、フランス、スペインもそう。 なんで、こんな淋しい結論に達してしまうかというと、それにはいろんなファクターがあって、ボク自身でまだよくわからないことがある。毎朝、パリのホテルの朝食で出てくるクロワッサンもバケットも確かに美味しかった。それにバターは発酵バターだったしね。コンビニの袋詰めにされて5つほど入ったクロワッサンなんてクロワッサンじゃないけれど、パリで食ったクロワッサンなら日本でも探せば食えるんじゃないか。う〜ん、こうして書きながらも、まだどうなのかと迷ってる。 我が家で作るヨー飯(面倒なのでイタリア、フランス、スペイン料理をまとめた。洋食とはちょっとちがう)で、カルボナーラ、これはかなり自信ありなんだけれど、本場、イタリアじゃどうなんだと、ローマ4日おる間に2回も食ったんだよ。で、我が家で作るカルバナーラと比べてどうだったというと、?が3つほどつくんだね。まず非常に塩辛い。しょっぱいのだよ。この一番大きな原因は食材の差。チーズが違う。だから、その分でいうと、本場イタリアのほうがもちろん本場の味なわけで、うちのカルボナーラはまちがっている、本ものとはちがう、ごまかした味になっている。が、あのしょっぱさはどうなのか。あれで良しなのか。それとぼそぼそとした食感。これもうちのカルボナーラは玉子を麺の余熱で固められない、つまりそれだけ手際よく作れないのが原因しているのかもしれない。が、そのぼそぼそとした食感と、滑らかなクリーミーな食感と比べると、クリーミーなほうが美味しいと感じてしまうのだ。 ここでひとつの結論は、日本は、この30年の間に飛躍的にヨー飯に関して進化した。そして日本人の口に合うようにアレンジされてきた。しかも旧来のスパゲティナポリタンと差別化するためにより洗練させてきた。ところが、ヨーロッパでは、それが極く当たり前の食べ物なので、あたかも玉子焼きがそうであるように進化することはないわけだ。う〜ん、その差、エアポケットのようなところにはまってしまったような気がする。 と、書いてみて、じゃあ、オムレツはどうなんだという疑問が湧いてきた。より早く日本に移入されたオムレットは、どんどん日本で進化して、もとのオムレットとはまったく別の食べ物に変化してしまった。もはや進化じゃなく変化。そうして洋食というひとつの日本料理になってしまった。もはや、オムレツとオムレットは比較できない。ということはカルボナーラも同じ轍を踏んでいくのか。さてイタリア人が日本に来て、カルボナーラは食べたときに、ボクらがヨーロッパで寿司を見て違和感を感じるのと同じことになっているのか。
《今に見ていなさいよ。私は、そのうち、林真理子みたいに有名な作家になっちゃうんだから。(もちろん当時はただの読者なので敬称略である)と、心の中で叫んでいたのだ。》 (下線部まご)
うはは、永遠に読者です、ボク。 あ、また横道にそれた。元に戻して、ここに集められた作家は、もちろん敬称略で、林真理子、田辺聖子、森瑤子、辻井喬、村上龍、安部譲二、群ようこ、景山民夫、藤堂志津子、佐伯一麦、光野桃、原田宗典、森詠、黒木瞳、花村萬月、松野大介といったラインナップ。うぅん、このうちちょっとでも読んだことあるのは7人だけか。半分弱(范文雀という女優がいたな。好きだったのに)か。もちろん集合と集合のandなので、半分弱というのは多いのか少ないのか。こういう書評とかを集められたら、読んだことない作家、たとえば光野桃の『おしゃれの視線』の書評を読んでもつまらないんだよね。ときにはそれがきっかけになって、読み始める作家というのもいるけれど。それと、この『AMY SHOWS』に限らず、書評集を見ると、ずらっといろんな作家が並んでいて、よくこれだけ本を読む時間があるもんだと感心する。彼、彼女らは、読むだけじゃなくて書いてるわけで、本来の書く時間のほうに多くを割かれるはずなのに、そこはやっぱりプロなんかな。ボクなんか、まだ人に比べればよく本を読むほうだけれど、それだけの書評を書くためには、倍の時間をかけてじっくり読まないと書けないだろう。となると、ますますそのための時間はどこから盗み出してくるんだろうと思う。逆に僕自身はどこにスポイルされてしまってんだろうと思う。 というわけで、村上龍の『すべての男は消耗品である』についての「もしかしたら努力の人?」と題された文章を読む。たぶん前にもさっと読んだことあったはずなんだけど、ちょうど龍について喋ってたことだし、『消耗品』は龍の中でさいてーの部類の文章だと言ったからね、さて詠美がどう書いてるかと思って読み出した。同業者さんとして、けちょんけちょんに書くわけにもいかないだろうしね。
《私はこの本が大嫌いである。村上龍本人が嫌いなんじゃないよ。こういう本に拍手を贈る読者を作り上げたこの本が嫌いなのである。》
ホッとした。この本を詠美が褒め称えたら、ボクの持っている詠美はすべてドブに捨てないといけなくなる。そして『消耗品』から引用して
「芥川賞なんて、二十代で簡単にとって、億単位の金のかかった映画をサラっと撮って、スクーバダイビングとテニスをして、一年のうち六十日は南の島に行って、速いヨーロッパ車に乗り、無数の女とうんざりするほどいいセックスをしていないと、いい小説は書けない」
この一文はいいねぇ。ボクは『消耗品』は読みかけてムカムカしてきたから、びゅんびゅん読み飛ばして、最後まで読んだかどうかさえ忘れてる。こんな一文があったかなぁ。詠美も「ひとつだけ感動している」と書いてこの一文を引用してるのだが、ほんとこれは的を得ている。ハングリーで小汚い擦り切れたGパンを履いて、毎日コンビニのおにぎりで糊塗して暮らさないといい小説はかけないというのなんていまや幻想だよね。とにかくいいセックスをしないと。ああ、したい、したい、したい。