んで、ボクはっていうと、きょうもテニス三昧。3戦3勝、むふふふ。まぁ、勝って当たり前なんだけど。
さて、きょうもぱっと開いた「岩手県のレンブラント」の一編を読んでいた。これは篠山紀信が遠野の民家の室内を撮ったのがネタになってるのだけれど、壁にカレンダーが7枚も貼ってあって、原平先生は例によってルーペを持ちだして、「この写真のシャッターの押し日は1971年4月2日」と解読してしまう。そこからつづいて、「この日、私は何をしていただろうか。」と、その私はかの櫻画報の「アカイアカイアサヒアサヒ」で朝日ジャーナルが回収された一連の騒ぎのまっただ中だったという。 じゃ、その頃にボクは何をしてたんだろうと、うつうつと振返ってみると、『女殺し油地獄』の公演体制に入ったばかりの頃じゃないですか。ということはふつふつと萌え始めた恋心...と、をひ(^◇^;) (この一文読んで赤面する人間一名) んで、その公演資金稼ぎにかりだされたバイトが平岸(札幌の当時はまだ山の中)のほったて小屋で、パネルにへばりついたコンクリートのカスをヘラでこそぎ落とすなどという、実に非生産的なバイトをやらされていたのだよ。小屋のすき間からはもう四月だというのに、櫻が舞うどころか、雪が舞い、ヘラを持つ手は冷たさにかじかんで、なんでこんなことしてまで芝居なんぞやりたいのだと泣きが入っていた。と、確か、ちょうどその写真が撮られたところから、300キロか400キロ離れたところでの非常に個人的な体験を思いだしていたのだ。赤瀬川原平?東京(たぶん)、篠山紀信?遠野、若きまごちゃん?札幌と、こういうふうに並列してみるのも悪くないな。 そんなことを考えながら、その短い一編を読むのも悪くないでしょ。それでね、もう一度、篠山紀信の写真を眺めてみてはっと気がついた。それまでは、その頃、つまり1971年4月頃と大まかな時間のとらえかたしかしてなかったのだけれど、真ん中に日めくりが大きく《2》とあるではないか。ん?4月2日、ああああ、ボクにとってそれは運命の日ではないか! とよくよく考えてみたら、その運命の日はその1年前、1970年4月2日。なんか1等の組違い賞みたいな気分。
きのう、きょうと李麗仙の本を2冊読む。すごい女性だワ。ある程度、垣間見たりして想像はしてはいたものの、舞台で見せる以上に、素の女性なのだ。読んでいて、ボク自身の青春を重ね合わせたりして、ドキドキしたり、せつなくなったり。