話ががらっと変るけど、結婚するとか、入籍するってのは、いったいどいうことなんだ。もう結婚してるから手を出さないでネと宣言することなんか。たぶんに世の中にはそいうところがあって、不便だなぁと思うわけ。男と、同性と朝までほっつき歩いてても、別にこれと言ってお咎めがあるわけじゃないのに、それが異性、つまり女と朝までほっつき歩いてたら、世の中からは、妻子持ちのくせにと、とんでもない男だ、さいてぇーだと罵られる。別にエエやん。それが許されないならほんま結婚なんて不便きわまりないなあと思うわけで、だから最近、まわりで結婚するとかいうても、おめでとうとは素直に言えない。同性同士で遊びに行くのに、宣言する手続き踏むバカいてる? なぁ〜んちて、こんなこと表きって言えるのはなぁ〜んもやばいことないからです。くそっ。 そうそう土曜日に新しいスキーのウェア買った。
か、痒いわ。お、お願い。ね、な、何とかして。ああ気が狂いそう
いい加減、歳をとると、つまりこれまでの時間に比べて残りの時間の方が絶対に短いと感じられるようになってくると、どうしても過去を引っ張り出してきてしまう。ボクなんかの場合はそこんところは適当でいいんだけど、上の「ギプス」じゃないけれど、写真家の場合は時を刻みつけることが飯を食ってるわけで、シャッターを押す瞬間瞬間に過去になっていくというのが宿命となってしまってんだよね。 そういうことを考えてしまうのは、実はいま写真家の森山大道の『犬の記憶』を読んでるから。そこで彼はそのことに葛藤してるんだよね。ところが過去ということに限らず人間というのは、形を残したいという業に縛れているわけだから、前へ前へ走ろうとすればするほどに、足跡という過去がひとつひとつ増えていくことになる。そういう二律背反を孕んでいるわけだ。ボクなんてのは、そこへもってきてナルちゃんだから、その足跡を石膏で型とってでも残していきたいってくらいでどうしようもない。 ボクがまだ高校、大学だったころに、親父が「大昔のことなんだけどな」と切りだして、彼がまだ学生だったころの話をよくした。大昔、むかしむかし、山へ柴刈りに..... その話を、いまその当時の親父の歳にまでなって、自分に置き換えてみると、どこが「大昔のことなんだけどな」という気がする。ついきのうのことのような。ジミヘンが死んだ、三島が自決したなんていうのはまだリアルタイムでしかないような気がする。この30年というものずとリアルタイムのまま。それは全く成長していないというべきか、いつまでもひきずって生きているというべきなのか。うまくまとめておくとすれば、少年のまま。 ということで落ちができたのできょうはこのへんにしといたろ。