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■2001/12/16 Sun■
■2009/12/16 Wed■ 『同棲時代』と『関東平野』まずtumblrで拾ってきた山形浩生 実体としての本、情報としての本(白水社の PR 誌。2008年3月頃)からの引用 そうは言いつつも、ぼくはずいぶんたくさんの本をためこんできた。ジャック・アタリはかつて、人がそうやって一生かかっても読めないほどの本をためこむのは、そうするだけの時間がいつか自分にできるという幻想を維持するための手段であり、ある意味でそれは時間をため込む行為なのだ、と指摘していた。でも、40歳を過ぎたあたりで、もうこの先絶対に読まないことが明らかな本が山ほど出てきた。いつかきちんと勉強しなおそうと思ってとってあった、大学時代の構造力学の教科書は……もうやらないよ、どう考えても。かつて少し買ってあったポストモダン系の哲学書も、もはや自分にとって意味がないことが明らかになってきた。そういうものをとっておいても、もはや時間をため込めているという幻想が成り立たなくなってきている。 「もうこの先絶対に読まないことが明らかな本が山ほど出てきた」というのは、ここ何年か前からずっと感じていた。例えば大学時代にノーマン・メイラーの『裸者と死者』とかに夢中になって、AランチをBランチにしてでも全集で揃えたのに、たぶんきっともう読むことはないだろうな。だろうな、じゃなくて、読むことはないにちがいない。ブクオフで100円だからとバカスカ買い込んだのにしても半分以上は読むことはないにちがいない。だからヤフオクで300円で売り飛ばす。をい。でも、なんとなくたぶん読むことはないだろうけど、愛おしくて手放すことができない本もある。例えば、ジャン・ジュネ。つまり時間をためこんだ証しとしてなくてはならない。同じ作者であっても、例えば上村一夫の『同棲時代』と『関東平野』では、前者はその証しとなるが、過ぎ去ったあとに出された『関東平野』はボクにとって意味がない。あるとすれば上村一夫というだけであって、それとてさしてこれから意味をもちそうにない。だからヤフオクに出品した。途端に売れた。それで何かが変わりうる人のところに行くべきだ。17,8のころに、いや50を過ぎても、とにかく手当たり次第、「その情報が何かを変え」うるのを捜していた。今もそうだけれども、でもやっぱりその期待ばかりを溜め込んでもどうにもならないなということに気がついてきたのか。ぅ〜ん、うまく言えないのだけれど、最終的に自分の時間を確認できる本だけが手元に残るのかな。ああ、なんかもうすぐ死んでしまうみたいだ。期待して溜め込んだものでも、それが何の意味ももたないのが明らかなら、さっさと手放しちゃえ、ってだけです。といっても人間てのは期待する生きものだから。ところが若い頃とちがって、何の意味もないことに賭けてみる時間がなくなってきたなあと、ちょっと寂しいんだけど、つくづくそう思う。でも若いのなら、まだ十分時間があると思えるのなら、意味なんか考えないで、どんどん賭けてみるべきだと、あ、オジンくさい説教になってきてる。 ■2010/12/16 Thu■ きのうの夜のツイッターでちょっとCDと文庫の話になったのでまとめておく。 |