というふうに、今年の大きな収穫の1つが「お徒歩」で、なんとか継続的なイベントになってしまいました。なんか因縁をつけて路上観察やっちまおうという目論みがまんまとはまったというわけ。 ボク個人としては、これ以外にも、ちょこちょことヒマにまかせて徘徊しておって、まさに種村季弘のいう「徘徊老人」の域に迫ろうかと(^_^ゞ 実際、トマソン=路上観察に端を発して、町を歩いていると、どんどん町の見方が変質してきて、赤瀬川先生から森山大道(この人、持って生れたような名前だ、もちろん本名)先生にシフトしつつある。だから10、11月のラスト2回は都合がつかなかったけれど、話を聞いていると、なんかボクが嗅ぎ回りたいのとちがうなという気がする。またこんなことを書くと、行かれへんかったからと何を負け惜しみ言うとんねんとメール来るんだろうな。来たら、うるさいので先に書いておきます(-_-) 8月の熱射病のように東京を歩き回ったときに、深川でトマソンは見当たらない、お宿かわせみの匂いもない、という情景だったのに、あとになって、あの深川を歩いたのが一番印象にきつい。絶対にこんなもんはおもしろくも何ともないし、自分自身でもおもしろくなかったのだけれど、がつーんと残ってしまっている。それは、夏になる前に荒木経惟の『東京は、秋』を見て読んでいて、その中の《ベタ光線》として括られた3枚の写真とすごくオーバーラップして、ボク自身が突き動かされてしまってるから。
この荒木経惟の写真にしても、絶対におもしろくもなんともないヨ。誰にだって写そうと思えば写せる写真のように見える。ただ誰もあんなショットは狙わないだろうけどね。でもこうして突き動かしてしまえるというのが、天才アラーキーってところなんでしょうか。 自分の中にある原風景の中にポツンとおかれた、いや連れ戻されたような気がする。真夏の日射しの中に自分一人取り残されて。そうした原風景を取り戻そうと、たぶん来年も歩き回ってるんだろうな。
この何必館で開かれた藤原新也の写真展は、1971のインドから1973のアイルランドまで、1991の門司も含めて、点数としてはさほど多くはないのだが、いちおうあらかたのところが展示されていた。アメリカ1989の展示のところには《アジア。その熱い実存から、明るい虚構。そして滅びのイメージへ。》と記されていて、やっとのことで、その熱い実存の重圧感から解放されたのだった。まぁいい意味だか、よくないんだか、いいようにとっとかないとしんどいワ。 以前から、ボクにインドへ行こうと誘うとんのがおるんだけどね、まだ20そこそこの頃はインドに行きたくて仕方なかったけれど、行ったら行ったでヤバイなと感じてた。今は本当にヤバイなと思う。そのことについてはまたいつか書くことにしよ。 ただね、藤原新也の写真はできすぎてんだよね。撮っているもの、そのものから来る重圧感と同じくらいに完成されたものとしての息苦しさがあるんだよ。荒木経惟なんかの息の抜けがないの。例えば、門司のフェリーの子どもの後ろ姿のように、完成されている分、がしっとイメージを押付けられてるわけではないんだけれど、打ち込まれてる感じがして、イメージを自由に展開できないってところがある。だからコテッとしたものを食べたあとの胃の重さのように残ってしまったのだ。そしていまも胃のあたりが重苦しく感じられる。 ふーーっと一息、向いのスタバで休憩して、そうそう、冬至はきのう?きょう? 日が暮れてしまうのがもっとも早いわけで、あーっという間に夕方の光が暮れていく。そうたいして時間があったわけでもないので、きょうは円山公園のほうをぐるっと回って、粟田口から裏道人生、三条まで歩いてみた。《明るい虚構。そして滅びのイメージへ。》ってね、それは裏表なんだろうけれど、《滅びのイメージ》って、まだまだ煩悩だらけらしくっていいじゃない。ボク自身もそんな煩悩にしがみついていたい。