男子用トイレは、壁沿いに黄色く汚れた用便器が並び、反対側の大便所も、ドアがみな内側に開いた状態で、人の気配はまったくなかったからだ。 壮介は、割れた鏡の下に取りつけられた手洗い容器に両手をつき、先ほどまで繰りかえし起こった吐き気が、もう一度こみあげてくるのを待った。 だれもいないと思うから、声をだして吐く真似もしてみた。 かすかに胸のむかっきは残っているものの、もう、嘔吐感はもどってこなかった。 壮介は、変色した手洗いの中につばを吐くと、ついでのように小便器の前に立った。 くぐもった声を聞いたのはその時だった。 壮介は、じぶんにかけられた声だとは思わないから、ゆっくり用を足したあとズボンのファスナーを引きあげ、それから腕時計を見た。 始業時間になろうとしていた。 職場である『ライオン・ハウス』企画第二室の情景が、壮介には見える。 壮介の姿のない窓際の席をふりかえって、係長の瀬尾が眉をしかめている。 「課長がこの時間にきていないなんて、こりゃ雨になるぜ」 独身で、ネクタイやカラi・シャツに凝る牧が、お茶を配りだした若い女子社員にいっている。 企画第一室課長で、腰の軽い話好きの磯辺が、じぶんの部屋にはいる前、壮介の部屋をのぞき、調子のいい冗談を飛ばしているところかもしれない。