もちろんあれだけの物量だから、細部を見尽くした思っても、見落としているものはたくさんあるだろう。現場での気持ちというのは舞い上がるもので、その場で度忘れしてしまう感覚がある。帰ってきてから、あれを見落とした、これを見落としたという忘れ物を思いだしたりする。その忘れ物がいっぱいあるようで、しかしそれが何だかわからない。赤瀬川原平『ルーブル美術館の楽しみ方』
ヨーロッパの旅行から帰ってひと月近くも経ってしまうと、その忘れ物さえあやふやになってくる。原平先生はルーブルの所蔵品のカタログを買って、それを首っぴきにして『ルーブル〜』を書いているようであるが、そんな広辞苑ほどもある分厚いカタログを買うと重くてイヤだったので、当然手もとにはない。だから、誰の何というタイトルの絵画だったのか、非常にあいまいになっている。目の前にしているときには、「ふんふん、これがファン・アイクね」などとしたり顔してたりするのに、いざどんなんだったというと、思い出せないでいる。さらに、あれーこれは見たんだったか、それとも何かの本の中で見ただけだったんじゃないかというような自分自身へ疑惑さえ湧いてくるのだ。そんなんだったら、わざわざパリまで行くなよって声も聞こえてきますが....
さて、原平先生も「一番の目玉というか有名作品の二大巨頭は、やはりモナ・リザとミロのヴィーナス」と書いているように、まず最初に目指したのはミロのヴィーナス。館内で無料で配布されている日本語版のガイドマップを頼りにミロのヴィーナスに直行。さすが、さすがのミロのヴィーナスであります。その優雅さは他の彫刻群は到底及ばない....なんて、ボクが美術評論してどうなる。30年前の時は「ここらにミロのヴィーナスあるで」と冗談半分に到底ありえそうもないようなところで言ってたら、突然ヴィーナスのお尻が見えてきたのだったが、今回はマップ見ながらたどり着いたから、真っ正面からご対面。 正直なところ、彫刻っていうのはいまいちよくわからなくて、そりゃバランスの悪いなぁというようなことくらいはわかるけれど、フィレンツェにもアホほど彫刻はあったし、ここルーブルでもそう、どてっ、どてっと塊が置かれていると、どう見ればいいものやら。そして丹念に見てたら、絵画以上に時間がかかりそうで、それだけで日が暮れてしまう。それらの存在感だけで満腹になってしまいそうで、きっちり見ようという戦意ははじめから喪失してしまってるのだ。 ところがやっぱりミロのヴィーナスだけは別格だね。この理想的なバランスに惚れ惚れしてしまう。あゝこんな女がいればなどと下世話なんぞ吹き飛ばしてしまう。ほとんど誰もがするようにぐるっと一周して眺め入ってしまうのだ。とくに左後ろから見るヴィーナスがすごく最高だね。
あとサモトラケのニケくらいかな、ちゃんと見たのは。ね、もう何か忘れ物だらけでしょ。そこからどどどどーっと絵画、絵画、絵画、絵画、、、、いちおう目ぼしいものは一当たり見たはずなんだけど、プラドーやウフィツィとごっちゃになってしまってたりもする。ただね、30年前の時は結構走ってみたような気がするんだけれど、今回は自分自身の絵画に対する造詣(そんなたいそうなものではないのだが)も深くなってる分、けっこうしっかり見てたから、疲れて、疲れて。どれがどうだったといちいち書かないけどね、それだけの能力も造詣もあらへんし、ルーブルの解説本だったらいっぱい出てるんだから、今さらボクが書いたってしゃあないしね。う〜ん、それでも今回生で見て、でかさに圧倒されたのは「カナの婚姻」かな。
と、もうまとめにかかってると思うでしょ。そんなもんでルーブルは堪忍してくれませんね。モナ・リザのことも全然書いてないし。モナ・リザ見ました。ですが、見ただけに終ってしまったなぁ。また30年前の話になるけれど、モナ・リザも、ヴィーナスと同じように到底ありえないようなバカでかい部屋の入り口で、冗談半分に「ここにモナリザあるで」と言っていたら本当にあったのでビックリしてしまった。それも素にあって、ただモナリザのすぐ下には、空気の温度や湿度を監視する機械がおかれてあるだけ。とびきりみんながモナ・リザに群がっているということもなくて、ゆっくり見ることができた。その直後にモナ・リザは日本に行くことになっていて、お先に独り占めにしてるようなちょっとした優越感を感じたりもしてた。ところが日本での展示はガラスの向こう側に収められ厳重そのものだったらしく、その展示方法までルーブルに持ち帰ってしまったらしいのね。今回は、相変わらずモナ・リザ特別室なんてところに展示されているわけではなくて、やっぱり大きい部屋(30年前とはたぶんちがう部屋)に他の絵に混じって展示されていた。しかもこのモナリザだけは写真撮影禁止。これはたぶんモナリザの前で人が滞留してしまうのを避けるためのようだが。それでもモナリザの前には人がいっぱい。これにはさすがにもういいやって気になってしまって、見たという事実だけに終ってしまった。見るのならゆっくり独り占めしてるように見てたいよ。