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うらまご/まごまご日記/まごっと/まごれびゅ/P-FUNK/maggot

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■2001/12/16 Sun■ 

Peter Broggs
Rastafari Liveth!
 こないだからどういうわけだか無性に目玉焼きを食いたい。そんなもん作ろうと思うたら文字通り朝飯前なんだけど、どういうわけだか、いざとなると、作らないで他のものを作ってしまう。きょうもお好み焼だったから、お好み焼を焼いている横で作ろうと思えば作れるのに作らない。変なもんだ。どうして目玉焼きを食いたいのか、わからない。いつも行ってるいも膳にも玉子焼きはあるのに目玉焼きが無い。なんでだ?
 ところで、ボクはだいたい飯つくれるけれど、世の中には料理なんて全くできない男がいる。なんでも作れるのは茹玉子だけだったとか、いう男がいる。冗談だろうってほんとにそういう男がいるらしい。最近、息子に教えてもらって、やっとカップヌードルは作れるようになった。そうしてある日、彼はUFOを作ったらしい。
 「おとうさんすごいなぁ。カップ焼きそばも作れるようになったんや」と言う息子に
 「このラーメンのスープ、変な味やったで」
なんと、彼はUFOの湯切りもしないで、3分後にそのままソースを入れたのだと。
これ、実話。んなアホなと、いやほんまにおるらしい。
 ずいぶん前のまた聞きなんだけど、見合い結婚をして、初めての食事。家に帰ってくると、さっとビールと冷ややっこが出てきた。をっ、気が利くねぇと喜んでビール飲みながら、おかずが出てくるのを待っていたのだが、冷ややっこでおしまい。ま、その日は初日ということもあって男は黙って我慢、我慢。次の日、またしても冷ややっこぽっきり。をいをい冗談だろうと思いながらも、男は我慢、我慢。ただ一言、「あったかいのも食べたい」とだけ。そうすると、次の日は湯豆腐。しかもただ鍋でぬくめただけの豆腐。冗談じゃないって話をよくよく聞いてみたら、料理という料理は全く出来ないという。ウソだろうってほんとにあった話らしい。それで離婚してしまったと、トホホな話。信じられないけど、ほんとにそういうのおってもおかしくないんだろうな。ボクの知ってる女にも料理はまったくできないというのおるし。
 ボクのつくるお好み焼はむちゃくちゃ美味いぞ。


--------------本日の食事
朝 トースト1.5、コーヒー2
昼 焼きそば
夕 お好み焼


■2009/12/16 Wed■  『同棲時代』と『関東平野』

まずtumblrで拾ってきた山形浩生 実体としての本、情報としての本(白水社の PR 誌。2008年3月頃)からの引用

そうは言いつつも、ぼくはずいぶんたくさんの本をためこんできた。ジャック・アタリはかつて、人がそうやって一生かかっても読めないほどの本をためこむのは、そうするだけの時間がいつか自分にできるという幻想を維持するための手段であり、ある意味でそれは時間をため込む行為なのだ、と指摘していた。でも、40歳を過ぎたあたりで、もうこの先絶対に読まないことが明らかな本が山ほど出てきた。いつかきちんと勉強しなおそうと思ってとってあった、大学時代の構造力学の教科書は……もうやらないよ、どう考えても。かつて少し買ってあったポストモダン系の哲学書も、もはや自分にとって意味がないことが明らかになってきた。そういうものをとっておいても、もはや時間をため込めているという幻想が成り立たなくなってきている。

 そして――最近では、それが本からもう一段あがって、情報のレベルにまで到達しつつある。本を読んだところで、情報を得たところで、その情報が何かを変えない限り、それにはまったく意味がない。いったいその情報をどうするか、その情報にどう意味を持たせるか――最近この疑問が以前に増して大きな意味を持つようになってきたのだけれど、その話はまたいずれ。

 「もうこの先絶対に読まないことが明らかな本が山ほど出てきた」というのは、ここ何年か前からずっと感じていた。例えば大学時代にノーマン・メイラーの『裸者と死者』とかに夢中になって、AランチをBランチにしてでも全集で揃えたのに、たぶんきっともう読むことはないだろうな。だろうな、じゃなくて、読むことはないにちがいない。ブクオフで100円だからとバカスカ買い込んだのにしても半分以上は読むことはないにちがいない。だからヤフオクで300円で売り飛ばす。をい。でも、なんとなくたぶん読むことはないだろうけど、愛おしくて手放すことができない本もある。例えば、ジャン・ジュネ。つまり時間をためこんだ証しとしてなくてはならない。同じ作者であっても、例えば上村一夫の『同棲時代』と『関東平野』では、前者はその証しとなるが、過ぎ去ったあとに出された『関東平野』はボクにとって意味がない。あるとすれば上村一夫というだけであって、それとてさしてこれから意味をもちそうにない。だからヤフオクに出品した。途端に売れた。それで何かが変わりうる人のところに行くべきだ。17,8のころに、いや50を過ぎても、とにかく手当たり次第、「その情報が何かを変え」うるのを捜していた。今もそうだけれども、でもやっぱりその期待ばかりを溜め込んでもどうにもならないなということに気がついてきたのか。ぅ〜ん、うまく言えないのだけれど、最終的に自分の時間を確認できる本だけが手元に残るのかな。ああ、なんかもうすぐ死んでしまうみたいだ。期待して溜め込んだものでも、それが何の意味ももたないのが明らかなら、さっさと手放しちゃえ、ってだけです。といっても人間てのは期待する生きものだから。ところが若い頃とちがって、何の意味もないことに賭けてみる時間がなくなってきたなあと、ちょっと寂しいんだけど、つくづくそう思う。でも若いのなら、まだ十分時間があると思えるのなら、意味なんか考えないで、どんどん賭けてみるべきだと、あ、オジンくさい説教になってきてる。
 写真だってそうで、意味とか考えないでガンガン撮ってしまえばいいんだよ、ぐちゃぐちゃ考えたって撮れんもんは撮れないしってずっと思う。ということは、ボクはまだ若いかねw


■2010/12/16 Thu■ 

 きのうの夜のツイッターでちょっとCDと文庫の話になったのでまとめておく。
 話の始まりは、最近になって、ヤフオクで文庫をい売りに出してるのだが、文庫にはそう愛着があるってものじゃないなぁという感じがあって、その分でいくとCDにもさほど愛着がない。別になくてもいいや、特にCDはCDプレーヤーを通して聴かなくてもiTuneで十分じゃないかと思える。
 で、一番本を読んで、一番音楽を聞いた二十歳ころ、つまり今から40年前を思い起こしたら、まずレコードというのは高かった。一枚2500円と今とさほど変わりがない。だから一枚のレコードを貪るように聞いた。そしてジャケットの隅から隅まで見た。その隅から隅までということになると、CDはそういうわけに行かなかった。字が小さいから読む気もしない。それとジャケットも小さい。30cm四方が12cm四方に閉じ込められた。単純に1/6の面積になった。それともうひとつ、StonesのSticky Fingers のようにジッパーそのものが組み込まれるというような楽しみがなくなったのが大きい。音質がどうこうじゃない、ボクの場合は。
 本で考えると、その70年当時に文庫というのはクラシックな文学が並ぶものだった気がする。そして単行本から文庫化されるのに何年もかかった。だから単行本を手にせざるを得なかったという事情がまずあった。もちろん文庫は安かったから、文庫で手に入るものは文庫で買った。いまは文庫化までに3年らしいがもっと早いんじゃないか。そして文庫化されるステータスのようなものも消失した気がする。
 で、何でもかんでも文庫化されるようになった時期と、CDが出てきた時期が重なる。つまり、消費社会となって行った時期なんじゃないだろうか。もう貪るように1枚のレコードを聞いた、レコードが高くて買えないからジャズ喫茶やロック喫茶で聞くなんてことももうなくなった。と、同時に本は本ですこすこ、行間だらけになっていった。
 アナログレコード→CD→ネット配信、単行本→文庫本→電子書籍。なんだか符合して感じられる。この間に位置するCDや文庫本に愛着を感じられないのだ。アナログレコードや単行本にはモノとしても存在感があったけれど、CDや文庫本にはその存在感が希薄なのだ。聞ければいい、読めればいい、ただそれだけの存在でしかない気がする。そこに刻まれたコトどもも希薄になっていったかもしれない。そういうのを求めない時代に移り変わった、とは言いたくないけれど、そう認めざるをえない。あと何十年か経って、また評価されるのかもしれないが。
 さて、ぼく自身について言うならば、もう目の前に起きていることを追いかける気力はなくなった。それよりもこれまでに蓄えてきたことを消化するのに精いっぱいで新しいことを求める余裕が無い。懐かしい、という気持ちに耽ろうという気持ちはさらさらないが、これから先に現れてくるだろう本なり音楽なり、それらよりも、ここまでツン読してしまったもののほうが自分にとって意味があるように思える。
 というわけで、音に関しては、電子化されたものでいい。いまさらターンテーブルを引っ張り出してこようとも思わないし、暗い部屋でタバコの煙にまみれて、頭を縦に振りながら聴くなんてことももうないだろう。アナログレコードはモノとしてあればいい。電子書籍については、残念ながら否定的でしかない。というより、電子書籍化されるようなものより、これまでにツン読された本たちに埋もれていたい。


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