わかっていても、がくっとくるのは、止まったエスカレーターに足を踏み入れたとき。止まったエスカレーターは、それはもうまったく階段となんら変わらないものとしか思えないはずなのに、あの金属の上に体をあずけた途端、無意識的に体だけが前へ追従しようという記憶だけが残っている。その結果、体の重心がずれて... と、理屈っぽくいうとこうなって、話しとしてはなんもおもしろくないんだよね。それを文学的に捉えてみると、周囲の状況に錯覚を起こして、自分があらぬ方向に進みかけてひやっとすることってある、と、ほら、思い当たることあるやろ。そして、きょうも止まったエスカレーターを用心深く歩いて下りたのだった。
『恋人のいる時間』といえば、中森明菜に同じタイトルの歌があった。作詞したの、誰か知らんけれど、ゴダールから連想したのか、それはどうかわからん。でもボクはそれ聞いてゴダールと同じだなと思ってて、ゴダールにしても中森明菜にしても『恋人のいる時間』というのはそれぞれにあまりに知られてないんだけど、ボクは結構好きでクルマでテープで流しながら一人で歌ってた。アラ、歌詞うろ覚え。恋人はいるんだけれど、独りで暮らしている女の情景描写が利いている歌。 まごれびゅにもちらっと書いたんだけれど、映画の中で《追憶》《現在》と夫ピエールと愛人のいる妻シャルロットに語らせるところがある。 「僕の記憶は・・・僕は忘れることができない」 「愛に生きるのは現在の中だけ。もし現在がなかったら、愛は死ぬわ」
映画館の外に出ると、まだ11時前だというのに茶屋町あたりはひっそりと静まっていた。コーヒー飲みたくても店も閉まってしまってる。地下鉄に向かって歩きながら、ふっとそこに何年か前に一緒に来た店。
ミクシ日記はもちろんのこと、このダイアリーに書かれていることどもも、まるで文章と呼んではならないものたちばかりでそろそろ嫌になってきました。きちんと長い文章を、センテンスのある文章を、パラグラフのある文章を、書きたい。中身なんて意味なんて内容なんてなくてもいいのだ。『ことこ・本と花びら大回転!』
聞くところによるとディズニーランドのミッキーたちは、「ミッキーは本物だ!」と信じている子供たちのために
文章を書いていないと、読んでいないと、文章との接し方がわからなくなる。