でね、この頃思うのがね、これって年のせいなのか、年というより世代の問題のほうが比重でかいと思うんだけれど、愛を語るピッチが速すぎる。つまり愛を語る手段が、手紙がいわゆる電子メールになり、電子メールがe-mailになり、携帯メールになりとどんどんピッチが速くなってきている。 (注:電子メールとe-mailと同じようなもんだけど、とりあえずはニフティまでのパソコン通信でのメールを電子メールと区別してみた)その速さについていけない。速くなった分、表層なだれのようになって、上っ滑りなことばを平気で流してしまう。 それよりも何よりもポストに見慣れた文字の表書きのピンクの封筒を見つけ出すときのワクワク感、はたまたなんでないのだと郵便配達のおっさんを追いかけていって間違うとらんかと言いたくなるようなジリジリ感ってのはもう味わえないんだろうな。で、ぎしっと書き込まれた、さらにその行間まで読みつくさないと気が済まなかったのって、いまとなったら何だったんだろ。そして1つの手紙から次の手紙までの空白の時間、なんだか、その時間ってすごく大切だった気がする。 たかが10年ほど前から、それが電子メールにとって代わられて、その時間が1日と短くなった。そしてなによりも、字体そのものが醸しだしてくれていた匂いがはく奪された。それでも、電子メールの、郵便配達のおっさんだとか、人の目に触れずに直接に飛び込んでくる秘密性のようなものにとり憑かれた。パソコンを起動して、あるいはパソコンをグレ電にぶちこんで、ピピピビーガガガガァーの向こうから飛び込んでくるその瞬間がたまらなく好きだった。そして微妙な行間の読み合い。 携帯に来たメールを試しに、e-mailに転送してみる。目一杯書き込まれて来たのでも、メーラーで見ると、2行、3行。行間というのが全くない。行間を読もうという愛が感じられるどころか、ほんとに行間というのがないのだ。文字数の制限の前に行間など送ることはできないのだ。もうひとつ大きな原因は入力方法。いくら《はぁと》が赤く揺れようが、この機種依存丸出しの絵文字を多用されたところで即物的ではあっても詩的じゃない。送られるのは、文章じゃなく単語の羅列。愛は携帯メールでは送れなくなったのか。 そしてあの甘美な空白の時間は数日から数分に。言葉に酔ってる閑などありはしない。いくらギャルが速かろうとキーボードに太刀打ちできないだろう入力方法で、いかに素早くレスを返すことができるかにかかってたりするのだから。もっとも文章でなく単語でしか愛を語れなくなってしまってるのだから、いわんやおや。