話はがらっと変って、どうしてやってしまうの?というのと、なんでやっちゃわないの?という状況がある。なにって、えっち。合体(新明解より)ですよ。というのは、きょうちょっと宮本輝と村上春樹の話をしていてそう思った。宮本輝の場合は、なんでやってしまわないんだぁーと読んでいていじいじいじする。それに対して、村上春樹の場合は、をいをい、やっちゃうの?それ、反則でしょー、あー、やっちゃったぁーってね。『海岸列車』と『ノルウェーの森』…… やったからって、何がどう変るかっていうセックスもあれば、やったために、あるいはやらなかったために大きく変ってしまうときってある。そのことがずっとずっと痛みとして凝り固まっていく。そんなんだったら、やらないでおけばよかった、あるいはやってしまっておけばよかったと思いを残してしまう。何をどう間違えてしまったのか。 やった、やらなかったのラインは、どこで引かれるのやら。いま、裸で抱き合って寝ていたいという欲求ははあっても、さて挿入したいという欲求は希薄で、それでも、いざそういう状況に陥ったらやっぱり挿入してしまうんだろうなということを漠然と考えていたきょう。