1月29日かぁー、ふーっ。きょうという一日がぁ……、いえ、別に1月29日というのは別に何にもないですよ。気になる人は[長年日記]でもクリックしてみろや、と書こうとして、自分自身でクリックしてみようとした。よく考えたら、その時点で今年の1月29日はまだアップされてなかったのだった(苦笑) そこで去年2004年1月29日はと見ると、アップしてない。じゃ、おとどしはと、これもまたない。2002年まで遡ったら、やっと出てきたよ。 きょうだって、そう。2,3日前から何かあったような気はしていたのに、ここしばらくのどったばたで、きょうになってもすっかり忘れてしまっている。夕方、家に帰るクルマの中でやっと、きょう何日だったって、ふと思いついてた。確か、去年は29日にはすっかり忘れていたのかな、31日になって書いてるね。《「歳をとるほど時間が解決するというのは辛い」といえば辛いな。》然り。然り様ならば...... これっていいことなんだろうか。多分、これでいいんだろう。と、言い聞かせている自分がいる。どんどん希薄になって行く。どんどん忘れて行く。だけど、すっかり忘れてしまった、忘れてしまえた、なんてわけじゃない。きょうだって、そう、キミの生きているはずのすぐ近くに何時間もいたのだ。そしてしっかり心には描いていたよ、近くに生きていながら、遠くになったキミを。そんな上書き保存ひとつできないでいる男なんだ。 もし、キミがこれを読んでくれていたら、すごくうれしい。
話はがらっと変って、どうしてやってしまうの?というのと、なんでやっちゃわないの?という状況がある。なにって、えっち。合体(新明解より)ですよ。というのは、きょうちょっと宮本輝と村上春樹の話をしていてそう思った。宮本輝の場合は、なんでやってしまわないんだぁーと読んでいていじいじいじする。それに対して、村上春樹の場合は、をいをい、やっちゃうの?それ、反則でしょー、あー、やっちゃったぁーってね。『海岸列車』と『ノルウェーの森』…… やったからって、何がどう変るかっていうセックスもあれば、やったために、あるいはやらなかったために大きく変ってしまうときってある。そのことがずっとずっと痛みとして凝り固まっていく。そんなんだったら、やらないでおけばよかった、あるいはやってしまっておけばよかったと思いを残してしまう。何をどう間違えてしまったのか。 やった、やらなかったのラインは、どこで引かれるのやら。いま、裸で抱き合って寝ていたいという欲求ははあっても、さて挿入したいという欲求は希薄で、それでも、いざそういう状況に陥ったらやっぱり挿入してしまうんだろうなということを漠然と考えていたきょう。