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■2004/02/24 Tue■
『路地へ?中上健次の残したフィルム』
[
長年日記
]
こないだから中上健次ネタばかり。さしあたり第2次中上萌えってところか(-.-;)
それであまりにもタイムリーにケーブルの日本映画専門チャンネルで『路地へ?中上健次の残したフィルム』というドキュメンタリーが放映されてた。青山真治監督。聞いたことあるような、ないような。
さて最初、クルマでぐるぐる走りまわってるの、あれ、これどこだろうって思ってたら、三重県の松阪。つまり紀州出身の映画作家=井土紀州が、松坂をスタートして、なんで松坂かわかりませんのですが、しばし42号線を南下して新宮を目指して走るのが続く。
う〜んとですね、この最初の10分ほど、非常に違和感があるんですがね。同じなら和歌山スタートで枯木灘を映してほしいんですよ。そして古座。そうでないと《紀州サーガ》にゃならんでしょ。確かにね、秋幸の姉=芳子が名古屋に出ていくときに木ノ本(熊野)まで鉄道で行って、矢の川(やのこ)峠をバスで越えて行ったというくだりがあるんだけど、その矢の川峠のトンネルを抜けるのを、まんま延々と映してんだけど、これは絶対に違う。新宮というのはそれほどに遠いのだと言いたかったのだろうか。
実はボク自身、1967年(昭和42年)に紀伊半島を自転車で一周している。そのとき木ノ本と尾鷲の間の矢の川峠を延々自転車を押して上がった。もちろん舗装などしてなくて、トンネルもなかった。芳子を乗せたバスが走った道はそのような道で、決して今のようにしゅーっと走り抜けられるんじゃなかった。 ついでに1967年当時で国道42号線は、和歌山-白浜、新宮-熊野以外はほとんど未舗装で、ちょうど太地あたりでは、雨だったので、走れないくらい自転車のタイヤが泥に埋まったのだ。
たまたま須野まで乗せて欲しいという若い男がいたのだろうか、その須野まで乗せてやって、そこから先に道がないという。この矢の川峠の下の海岸線に沿った道は長い間貫通してなかったんだけれど、いま現在できちゃってるよ。撮影は1999年だそうで、その時は確かに道の果てなんだけど。
どうも新宮=『地の果て』なのだということを言いたかったのかね。『地の果て 至上の時』と中上が書いた『地の果て』というのは確かに空間的な地の果てという意味も込められてはいただろうけれど、それ以上に時間的な地の果てだったんじゃないか。確かに東京の人間からすると、名古屋、大阪からも4,5時間もかかる地の果てという印象があるんだろうけど、ボクのように大阪の人間から見るとさほど地の果てという感はないんだよ。
須野に至る新鹿(あたしか)は中上が一時移り住んだことある地なんだよね。このドキュメントではなんもなかったです。しかもね、松阪から熊野までやってきて須野に寄り道するんだったらね、なんで有馬をすっ飛ばすんだよって。有馬、古座というのは紀州サーガにとって、秋幸にとって、父の地、母の地なのにね。最初の10分ほどはほんと余計だね。
さて、いよいよ新宮。新宮の町を、歩きながら例えば神倉神社や、巨木の下で『地の果て 至上の時』の一節を朗読する。廃校の中で朗読するなんてちょっと考えものだな。そこに、中上健次自身が16mmで撮影したフィルムが挿入される。なるほど臥龍山はこういうふうに新宮の町を分け、切通というのはこうだったのだと。そして路地、その井戸。そしてまた人たち。。。
その16mmのパート
は
よかった、なんて言うと元も子もないんだけれど。このドキュメンタリーが撮影された1999年というと、すでに路地も臥龍山もきれいになくなってしまってる。ボクの第1次中上萌えの1994年だったか、そのときにもすでになくなってしまっていた。それはいいことだったのか、どうなんだか。その『地の果て』に『至上の時』がおとずれたのだろうか。なんだか、このドキュメンタリー全体がセンチメンタリズムにすっぽり包み込まれているようでね、結局、最初から最後まで、どこかボクがイメージする中上の世界とは違っていた。
1967年に新宮に行ったときに、もちろん中上健次の「な」の字も知らないで、泊っていたYHがどのあたりにあったのかさえ、もう覚えてはいないけれど、ただやみくもに歩いて新宮の浜まで出た。いま考えてみると、路地のあたりもわけのわからなまま歩いていたのかもしれない。その新宮の浜は、ボクの記憶のどこかに荒れた光景としてかすかに残っている。
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