このmacheteの写真なんだけど、この写真をみたときに、はっと思い当たった。何の変哲もない。少しはげかけたトタンの前に猫じゃらしが生えているだけ。あ、説明しなくてもいいですか、見たらわかる。敢えて言うとなれば、猫じゃらしの緑とトタンの色の組合せがすごくいい。構図っていったって、ふつう、こんなん誰でも写せるやんけと思うでしょ。でも、でもなんですね、
あ〜っ、トタンの右端がめくれ上がっている。あわてて、先の一枚を見る。トタンのペイントがかすかにかすれているだけだ。先の一枚もめくれがあった気がしてた。そう思い込んでただけだった。machete、どちらか一枚だけのキミの選択は間違ってなかった。すべてはjust another。あるがままに撮る。何も変ったものを撮る必要もない。それが自分にピンと来たものをあるがままに撮ればいい。ピンとインスパイアしてくるのは、そのものの向こうに潜む写神なんだから。
あ、そうそう6月もいっぱい写真、写しましたよって、いちおう、いつどこに写真してたかってのは、bloggerのほう。だけどflickrのカレンダーのtakenを見ると、6月はガタッと減ってる。postにしたって、この半年の中でもっとも少ない。多ければいいってもんじゃないけど、それがスポイルされているってことにあるのは確実。やっぱりなんとかすべきところに到達している。
下鴨神社・糺ノ森の水辺に菖蒲が咲いているんですね。そんなことをどこでどう情報を仕入れてくるんだろ。菖蒲園にでもなっていて、一面に咲いてるのならまだしもひっそりといくつか咲いてるだけだよ。それも柵があって、その柵の縁から数メートルのところ。あら?菖蒲、菖蒲と書いてるけど、たぶん菖蒲な。ボクはきちっと見たわけじゃないから、ひょっとしたら違うかもしれない。とりあえず菖蒲にしておくけど、その菖蒲に向かって、大型の三脚をセッティングして、あれは何ミリだろ、望遠でひっぱってるのね。それが3人もね。ご苦労様なことだ。ボクは到底あのスタイルで写せるわけがなくて、そんなふうに撮っているのを見てしまうと白けてしまってね、菖蒲に一瞥をくれただけで、別に撮らなくてもいいやって、だからたぶん菖蒲だったと。きっと美しい写真が撮れるんだろうな。でも、そうまでして撮らなくても、誰かが撮ってくれるでしょ。その場はさっさと行きすぎて、ものの50メートルも行かないところに、ほれ、シンビジューム?にかすみ草。なんでこれ撮らないんだろうね。有り難みがないんかねぇ。縁結びの願かけ用に、いっぱいあって、よりどりみどりで撮れるのになぁ。あんな大層な機材なんかなしで撮れるのになぁ。偶然、その場に菖蒲を見つけたら、ボクも必死こいて撮るかもしれないけれど、どっかのカメラ雑誌にでも載ってたんでしょ。そんな情報見てわざわざ撮りに行かないね。 それからまたぼやーっと歩いてたら、北山通まで来ると、2メートル四方くらいのでっかいレフ板があって、スタイリストやアシスタントやら、たむろしていて、ああ大変だなぁ。商業写真ってのは。きっと撮っててもつまらないんだろうな。と、すぐその横に有刺鉄線が錆びたトタン板にからみついてる。ボクはその連中の目の前で、それをどうすっぺかとカメラ向けてる。ああ、ボクがその商業写真のカメラマンなら、羨ましくて仕方がないぞ。仕事ほっぽり出して写してたいと思うに違いない。あ、でも休憩時間の間にささっと写してしまうか。
と、こんなふうにこないだの火曜日も京都の町を歩き回って、歩き回りすぎて、もう夕方でそろそろきょうの写真もおしまいかなって、ほんやら洞にころがりこんでしまった。甲斐さんとどうでもいい話を二言三言交わして、しばらくすると、「買い物に行ってきます。ごゆっくり」と出かける甲斐さんの首からカメラがぶら下がってる。それを見てしまうと、ごゆっくりなどしてられなくて、それでも足はもうほとほと痛い。が、もうひと写しするかと、夕闇の河原町を三条まで歩いた。空には半月、そして飛行機雲。