その昔は、ボールペン片手に手当りしだいにライン入れたりしていたのだが、これがあとで見ると、実に寒い。なにを読んでたんだ、ばぁ〜〜か。ってな具合。ヘタすりゃ、ルビまで入れてんだから、恥ずかしいかぎり。そのおかげで、借りパクされ、こともあろうに古本屋に並んでいた本のが、確かにかつて自分が必死こいて読んでいたことがわかり、取り戻すことができたんだけどね。オレの吉本隆明『共同幻想論』売り飛ばした奴、もう時効なので堪忍、誰がしたるかぁ。いまやその『共同幻想論』は教祖直筆のサイン本となりましたが(自慢している) 去年だったか、中沢新一の『ニコイコン』をBOOKOFFで100円で買うたけど、お寒い限りの傍線には笑えた、笑えた。それからなんとなくさびしいのは最終ページに読了した日付を書くの。『豊饒の海』がそうなんだよなぁ。ボクはこれを古本屋で4巻揃いで750円で買ったんだけど(また自慢)、これの最後には、 「豊饒の海」完。 昭和四十五年十一月二十五日 としたためられてる。その横に読了した日なんておこがましくて書き込めないです。 かと思えば、ボクが高校生の時に友だちの兄貴の本だと借りた五木寛之の『青年は高野をめざす』に、とても恥ずかしい、キミ、何を読んでんだという数行の感想が記されてた。 そんなことを書いてたら、まごちゃん、まごちゃん、君の《まごぽん》、ありゃなんなんだいと言われかねないね。あれはでつねぇ、ボク、大学生のころ、ありあまる時間を浪費して、ノートに気に入った文章を抜き出して写してたの。それをまたやってみてるだけ。WEBにおいてはいるけれど、かなり私的なんだよなぁ。それに本に書き込むのとまた趣が違うでしょ。
とある日記の作者さんの言わんとするのはね、ページの間に好きな男を感じ取りたい、好きな男がどう感じたのか、それを自分も知りたいと、そうだよね。ん〜、困った。ボク、ほんと本はきれいに読もうとする人だから、そんなの感じと、あ、ボクが困ることもないのか。こりゃまった失礼しました(植木等風に)
ニュースで何度も言われている、その前の停車駅伊丹でオーバーランして1分半遅れていた、その遅れを取り戻そうとスピードの出しすぎでカーブを曲がりきれなかったのではないかと。いままだ救出を待っている人もいる段階で、自分勝手な憶測で話すのも問題ありなんだが、あえて書いてみる。 1分半や2分ほどの遅れというのは乗ってる者にとってはそうたいした問題ではないんじゃないか。中には時刻表通りに運行しないと怒り出す人もいるだろうが、おおかたの人間にとってはこの程度の遅れは許容範囲だろう。じゃ、なんでそんなに急いだのだと思っていると、この運転手は少し前にもオーバーランをやらかしていたというニュースが流れた。ここで、そのような運転手をJRはまたそのまま運転させていたのかという意見もあるだろう。確かに、それも一理あるだろう。運転手が悪いのだ。そんな運転手を使っているJRが悪いのだと。 これはあくまで憶測にすぎないが、この運転手の管理者、要するにJRの上司は、そのことを叱責しているだろう。そして、次またやったら、と付け加えているかもしれない。そのためにオーバーランを隠ぺいするためにはどうしてもその1分半を取り戻さなければならなかった。運転手の不適格とするのは簡単なことだ。それでこと足りるのなら、この事故で亡くなった人は浮かばれない。 ここで思い当たるのは、最近、生産性を重視するあまりに、過度に管理が強くなってないか。あくまで憶測なのだが、叱責から、すでに通り越して脅しになってしまってないか。そうしてその脅しの上に不適格の烙印を押す。それは電車の運転手に限ったことではない。人間性より生産性を重視するあまりに、平気で切り捨てていく。確かに能力的に劣った人間はいるだろう。だけど、その人間を周囲がカバーして行くということもなく、切り捨てていくことに平気になってきている。人が人に対して、殺伐としてきている気がして仕方がない。