ニュースで何度も言われている、その前の停車駅伊丹でオーバーランして1分半遅れていた、その遅れを取り戻そうとスピードの出しすぎでカーブを曲がりきれなかったのではないかと。いままだ救出を待っている人もいる段階で、自分勝手な憶測で話すのも問題ありなんだが、あえて書いてみる。 1分半や2分ほどの遅れというのは乗ってる者にとってはそうたいした問題ではないんじゃないか。中には時刻表通りに運行しないと怒り出す人もいるだろうが、おおかたの人間にとってはこの程度の遅れは許容範囲だろう。じゃ、なんでそんなに急いだのだと思っていると、この運転手は少し前にもオーバーランをやらかしていたというニュースが流れた。ここで、そのような運転手をJRはまたそのまま運転させていたのかという意見もあるだろう。確かに、それも一理あるだろう。運転手が悪いのだ。そんな運転手を使っているJRが悪いのだと。 これはあくまで憶測にすぎないが、この運転手の管理者、要するにJRの上司は、そのことを叱責しているだろう。そして、次またやったら、と付け加えているかもしれない。そのためにオーバーランを隠ぺいするためにはどうしてもその1分半を取り戻さなければならなかった。運転手の不適格とするのは簡単なことだ。それでこと足りるのなら、この事故で亡くなった人は浮かばれない。 ここで思い当たるのは、最近、生産性を重視するあまりに、過度に管理が強くなってないか。あくまで憶測なのだが、叱責から、すでに通り越して脅しになってしまってないか。そうしてその脅しの上に不適格の烙印を押す。それは電車の運転手に限ったことではない。人間性より生産性を重視するあまりに、平気で切り捨てていく。確かに能力的に劣った人間はいるだろう。だけど、その人間を周囲がカバーして行くということもなく、切り捨てていくことに平気になってきている。人が人に対して、殺伐としてきている気がして仕方がない。