汗がワイシャツを拔けて、背廣の背にまでにじんでゐるのが感じられる。暑さの汗か油汗かわからなかつた。ともあれ年老いてからこんなに汗みづくになつたことはなかつた。
山門までの昇りの参道は遠く、車は山門まで入れるのに、老人の歩行は無理だと、運轉手は、雲が残りなく晴れて、日がいよいよ烈しくなつた空を見上げて、執拗に本多に勧めたが、本多はしたたかに断わつて、この門前で待つてゐるやうに命じた。どうしても六十年前の清顕の辛苦を、わが身に味ははねばならぬと思つてゐたのである。
沼があった。沼邊の大きな栗の強い緑のかげにやすんだのであるが、風一つなくて、水すましの描く波紋ばかりの青黄いろい沼の一角に
天下泰平 奉轉讀大般若経全巻所収皇基顰固と刷った札が字もおぼろに貼られてゐた。
四角い敷石が市松つなぎに内玄関まで敷かれてある。本多が杖でひとつひとつこれを数へて、九十に達したとき、
ひたと閉め切った障子に、菊と雲の紋様の白い切紙細工の引き手のある、内玄関の前にその身は在った。
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののやうに見せもすれば、幻の眼鏡のやうなものやさかいに」