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■2002/10/07 Mon■  脇坂幸之助 [長年日記]

Cream
Wheels of Fire
 上町線が松虫の駅を過ぎて阿倍野筋に入るところにマネキンの工場があったのを覚えてるかなぁ。そこのマネキン工場から壊れたマネキンをもらい下げてきて、陸上ボートの上に積み上げたのが脇坂幸之助だった。
 陸上ボートの準備の講堂で次第にでき上がっていく4組のマネキンボートにボクは少なからず、やられたぁー!と思っていた。その脇坂幸之助が、陸上ボートのリーダー会議の場でいきなり、ハンドマイクを使いたいと持ちだした。外周を卑猥に連想させるような蛮声を発して練り歩く。そこで客席によく聞こえるようにハンドマイクを使いたいと言うのだ。これには脇坂幸之助以外の9人のリーダーは猛烈に反対した。体育教官室で七尾先生を囲んでのリーダー会議は確か一日で終わらなかったと思う。夜の8時を過ぎて、休憩中に脇坂がボクのところにこっそり近寄ってきて「なぁ、もう堪忍してえや」と。結局、七尾先生預かりで、外周でのハンドマイクは禁止で、フィールドの中に入ってからは使わせてやれということになった。
 さて、この脇坂幸之助とは小学校、中学校、高校とずっと一緒だった。小学校1年の時に同じクラスだったのだが、その後、10年間、同じ学校に通いながらも、同じクラスにはとうとうなることはなかった。しかし小学校1年の時の彼との出会いはボクにとってはかなりの比重を占めた。べったりと行動を一緒にすることはなかったけれど、付かず離れずの距離を保って彼とつきあっていた。
 小学校1年の時、家もけっこう近かったのでよく脇坂幸之助の家に遊びに行った。ボクは中庭に張りだして増築された小さな部屋が好きだった。彼のお父さんの趣味だったのか、鉄道模型がたくさんあって、小学校1年でありながら、彼も精巧に型紙を切り抜いて色をつけているのには驚かされた。そして絵を描かせると、非常に細かい、確か桜の花びらを1枚ずつ描いていたような記憶がある。
 時代は高校紛争の真っ最中で、彼とぼろぼろのチューニングもまったくできていないギターを持ってでかけて行ったこともある。高3のとき反博(反戦のための万国博覧会)にも彼と出かけて行った。そこで『受験生のブルース』を歌っていた高石友也と会った。テントの間をふらふら歩いていた高石友也を捕まえて、脇坂幸之助は自分のギターを高石友也に渡して、弾き方を教えてもらっていた。「ボクのギターは打楽器だからね」と言う高石友也ににこにこしてた脇坂幸之助の顔が懐かしい。
 また脇坂幸之助は高校時代から毛沢東に心酔していて、文化大革命まっただ中で漢字の簡略化を進める簡字表というのをどこからか手にいれてきて、例えば積分の「積」は「禾只」と簡略化すればいいんだと教えられた。ボクはそれを数学の板書で使ってゴンボ(田中)先生にえらく叱れたものだった。それでもボクと脇坂幸之助のの合言葉は『造反有理』だった。糊口卒業後、彼は国交回復前の中国にも行き、意気揚々と人民服を着て戻ってきた。その脇坂幸之助の人民服姿はあまりい毛沢東にそっくりだったので大笑いをしたものだ。
 脇坂幸之助は京都市立芸大に進んだ。とうとうちがう学校に通うようになっても彼との距離は変わらなかった。ほとんど格好つけで読んでもわからない朝日ジャーナルを買うようにボクに仕向けたのも脇坂幸之助だった。と、いうのは赤瀬川原平の『櫻画報』が当時の朝日ジャーナルに連載されていたから。あるとき京都で開かれる赤瀬川原平の個展の案内葉書をボクのところに送ってよこした。ところがその葉書に不足料金を取られた。その葉書はすでに消印が押された使用済みのだという。よく見ると、その消印は彼が克明に似せて描いたものだったのだ。しかもわずかに切手を外して描いてあったのだ。

 脇坂幸之助が交通事故で亡くなったという知らせを聞いたのは1972年か73年か。レポートを提出するのに大学の友人の運転するオートバイの後ろに乗せてもらっていた。オートバイは河原町の市電の線路にタイヤをとられて転倒。投げ出された彼の頭をすぐ後ろから走っていたトラックが轢きつぶした。
 全く格好をつけるのでなく、ただ自分のやりたいように鈍くさく生きてきた脇坂幸之助。彼の死に方も彼らしく鈍くさかった、などと言ったところで、天国でぱんぱんに張った頬っぺたを揺らせて笑っているちがいない。彼が生きていたらボクの生き方ももっと変わったかもしれない。が、高校時代、いや小学校からの12年間にボクをひきずりまわしてくれ、好き勝手に生きればいいと教えてくれたのは、脇坂幸之助だった、と思う。


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