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■2003/08/26 Tue■  『ローマの休日』『甘い生活』をめぐって [続] [長年日記]

 行く直前にデ・シーカ監督の『ア・モーレ』という映画見てたんだけど、その映画で電話の「もしもし」がイタリア語では「プロントプロント」なのね。これ実際、ローマで電話してるのによく出てきた。いまイタリアは携帯がどこもおかまいなし状態。どこかの国のように携帯に目くじらなんか立てないから唖然とする。あっちこっちで「プロント、プロント」

 さてフィレンツェに日帰りで行ったとき、ウフィツィ美術館で1時間半も待たされて、その間、東京のナース3人組と話してたら、彼女たちは『甘い生活』の舞台だったなどと知らないでカフェ・ド・パリに行ったとか言う。夜遅くだったのでけっこう人もいたとか言うので、こりゃやっぱりもういっぺん行かないとというわけで、フィレンツェから帰ったその足でヴェネト通りへ。フィレンツェで晩ごはん食べなかったら、ちょっと遅い目だけど軽く何か食べようって。
 ローマに列車で戻ってきたのが11時半過ぎ。そこから歩いて(アフォです)カフェ・ド・パリに着いたのが12時半。カフェ・ド・パリに客はおらんことはなかったけれど....もりろん、マルチェロもパパラッチもおりませんでしたよ。ちょっと虚しかったな。「君は間違っている。僕もだけれど...」というマルチェロのことばが妙に心に響くだけ。『甘い生活』から40年か。あの映画の中のヴェネト通りの喧騒ってもうとうに過去のことなのかなぁ。いまはしっとりとオトナの町になってしまっていた。もしローマに行くことがあって、そしてバカンスの時期でないのなら、もう一度、そこに座ってみたいという心残りができてしまった。

 さてローマの最終日8日になって、ナヴォーナ広場周辺を歩いた。ここもホテルから歩いて行ける距離で、その日一日で2往復もしてるんだから。コベルト・ベッキオ通りなんて何度行ったり来たりしたことか。この通りにヌオヴォ教会というのがあるんだけれど、実はこの教会に時計塔があって、その時計塔こそが、マルグリット51番地のグレゴリー・ペックの部屋から見える時計塔だと、どこかで読んだんだけどね。別にその時計塔が見たいというほどの『ローマの休日』フリークじゃないよ。その証拠に真実の口なんかも行かなかったし、ただベッキオ通りあたりは歩いてみたかったから、そのついで。ところが、その時計塔って通りから見えないんだよなぁ。けっこうその周辺をうろうろしてたから、どこかから見えてもよさそうなのに。もちろんマルグリット51番地から見えません。もしそのヌオヴォ教会の時計塔だと言う話が間違いでないのなら、映画はまったくのウソですね。都合のいいように場所をくっつけてしまう。そんなことはわかりきってるわけで、例えばマルグリット通りのアパートを抜け出たヘップバーンがいきなり市場のような雑踏に紛れてしまうのだけれど、マルグリット通りはアンチックやブティックがちょこちょこっとある静かな通りだしね、その分で言うと、ヴェネト通りの雑踏も映画のウソかも。

 パリに移って、こっちはローマ以上に、映画のロケ現場というのがうじゃうじゃあるんだけれど、きりがないので全然チェックして行かなかった。ただ1ヶ所、『アメリ』のカフェ・ムーランだけ。一時は『アメリ』人気で行列ができるくらいだったらしいけれど、いまは客もぽつぽつとしかいなくて、店の奥に貼ってあるアメリのポスターがなんか侘びしかったなぁ。モンマルトルをムーランルージュの右側の通りレビュック通りを上がって行って左側。店のテントに《TABAC》なんかとも書かれてあって、おしゃれな店って感じとはほど遠かった。もちろん入ってませんよ。『アメリ』は、『ローマの休日』や『甘い生活』なんかに比べるとほとんど思い入れなんかないので、どの場面でカフェ・ムーランが出てきたかも記憶にないのです。そのくせ「クリームブリュレのおこげをこちこちと割るのが好き」に乗って、パリでは3日続けてクリームブリュレ注文してんだもん。さすがに市場で豆に手をつっこむということはしませんでしたが。

 4都市回って思ったのは映画館の多さ。もちろんハリウッドがヨーロッパにも進出してきてはいるけれど、町の中心からちょっと外れたところ、例えば、マドリッドでも、ソル広場から5分も歩けば、観光客もあまり来ない生活臭がぷんぷん漂うところ、肉屋の隣なんてところに、町の小さな映画館がある。をっ、『ANA+OTTO』やんか。こんなところでめぐりあうとはネ。スペイン映画だからスペインでかかっていて当たり前だろうけれど、『セクシャリティーズ(La Mirada del Otro)』もかかっていて喜んでしまう。パリになると当然のように映画館が多いなぁ。カルチェ・ラタンなんかには何軒も小さな映画館があって、ちょうど前を通ったときにフェリーニがかかっていて、前に並んでいる人種が、やっぱり日本でフェリーニやゴダールがかかったときに並んでいる人種と似てたりして笑えた。ちゃんと値段を見てないけれど、きっと日本なんかに比べれば安いんだろうな。それくらいヨーロッパじゃまだまだ映画がウェイトしめてのがちょっと羨ましかった。日本はテレビ見過ぎなんだよなんてぼやいてみたりして、あ、アメリカじゃ、いくらでも見かけたレンタル・ビデオ屋がほとんどなかったな。やっぱり映画はビデオじゃなしに映画館で見るものなんだ。

 








■2003/08/25 Mon■  『ローマの休日』『甘い生活』をめぐって [長年日記]

 この2年間ほど、映画を見続けてきた。映画を見たといっても、怠惰なボクのことなので、そのほとんどが家で寝転がってビデオで映画を見ていたわけだから、ほんとに映画好きな人からすれば邪道といえるかもしれない。それはそれとして、映画を見ることより、まごれびゅを書き続けることのほうに意地はっていたようなときもあって、全くもって主客転倒です。そのころは手当たり次第、何でもかんでも見てたりしたのだけれど、最近はまごれびゅを書くペースも落ちて、じっくり自分の好きな映画だけ見るようになった。つまりヨーロッパ映画か、邦画。それもかつて若いころに見たことのある映画がかなり多くなった。それが是か非かはいまはおいといて、今度の旅行に出る前に見たのが『ローマの休日』と『甘い生活』
 ローマは初めてだったので、やっぱりきっちり予習しておかないと。映画の中の1シーンに立ちあうのも悪くないでしょ。自分が映画の中の1シーンに出ているかのような錯覚にときとして陥るのも。ははは、最後の最後にはちゃっかりポンヌフの上で『ポンヌフの恋人』よろしく記念写真撮ってるんですけど(笑)

 ローマのホテルが、スペイン広場のすぐ近くで、ホテルに着くとすぐに出かけたのが、スペイン広場。ヘップバーンにグレゴリー・ペックが声をかけた位置なんかまで覚えていたけれど、スペイン広場は人がいっぱい。それにまさかあのシーンの真似をするわけにもいかんでしょ。ところがスペイン広場には花売りがいて、『ローマの休日』ではヘップバーンが、お金持ってないと言うと、1本だけヘップバーンに持っていっていいよというのだったけれど、いまは最初から1本だけ目の前に差し出してくる。差し出されたばらの花1本を思わずマーニャは受け取って、をっ映画と一緒やんか、粋なことするやんか....なんて、そんなはずが今のご時世にあろうはずがない。受け取ったマーニャも困って、日本語で「これ金くれとちゃうん」とボクに聞いてきた。もちろんばらは返したけれど、案の定、そのあと行く先々の広場で同じような花売りがおったよ。
 ローマのガイドブックには、いまもスペイン広場にはジェラートが売られているが、スペイン広場の階段で食べることは禁止されている、と書かれていた。まぁそれも映画のシーンの真似をする気はないんだけれど、実際、スペイン広場の階段の下にはジェラート屋はなくて、階段を上がりきったキオスクでジェラート売っていた。もちろん、それもきっと高いだろうからと買わなかった。そこからちょっと歩いたさびれたカフェにジェラートがあったので、すぐに買ってしまうあたりミーハーです。が、甘いばかりで美味しくなかった。
 ローマで最初に行こうとしたのはヴェネト通り。もちろん『甘い生活』です。ちょっと道を間違えて遠回りをしたけれど、なんとかヴェネト通りに着いたのが8時を回ってたかな。8時といってもサマータイムなのでまだまだ明るい。さっきのスペイン広場の人いっぱいに比べて、ぐっと人は少なく、まわりもどことなくオシャレで、東京でいうなら青山って感じだったけど、店はほとんど閉まっていた。バカンスのせいか、時間がまだ早かったせいか、『甘い生活』では夜の六本木然としていたのに、肝心のカフェ・ド・パリも通りのテラスには誰も座ってなくて肩透かしを食らわされたみたい。そのまま歩いていくと前に城壁が現れて、をを〜って、ヨーロッパ初日だったせいもあって、このあたり浮かれ気分で、ハリーズ・バーのテラスでエスプレッソ。いま考えるとけっこう高かったような。ハリーズ・バーはけっこう観光客ずれしていて、たぶんあのテラスに座っていたのは全員観光客だったんじゃなかろか。イタリアだからギャルソンとは言わないんだろうな、要するにボーイさんがカメラを見つけてシャッター押したげよかと、まずはヨーロッパ最初の記念写真。
 ン〜、こんなふうに、映画『甘い生活』と現実の違いを見せつけられて、長い地下道を抜けてスペイン広場の方に戻った。しばらくはコンドッティ通り周辺のウィンドーショッピングをしながらぶらぶら歩いていると、ふっとポポロ広場に出てしまった。夜遅くのポポロ広場に座って、ヨーロッパに来たなぁとしみじみ。この解放感はやっぱりラテンやんなぁって。
 ポポロ広場まで来てしまったら、かのマルグリット通りもすぐだし、ホテルへの帰り道なので、当然のようにマルグリット通り51番地を見ていこうと、ほんまミーハーでしょ。当たり前のことだけれど、映画『ローマの休日』と現実はちがうわけで、愕然となんかするわけなくて、ふ〜んって感じ。当然、中庭に入る門は固く閉まっていて、いちおうここがグレゴリー・ペックのアパートとなったところねって。
 ところで、7日の朝に一人で散布に行ったとき、ホテルからマルグリット通り51番地まではほんの5分くらいで、ラッキーにもその表の門は開いていたので、中を覗いてきた。はい、映画と全然違います。映画ではその中庭はセットなんだよねぇ。
 2日目にはバチカンに行ってカトリック総本山の凄さを見せつけられたんだけど、クーポラの上まで上がったときに、この上をキリストをぶら下げたヘリコプターを飛ばしたフェリーニってのは、といたく感動した。よくあんなシーンを撮れたな、よく公開できたなって。バチカンを見たらそのフェリーニの凄さがわかる。
 そして夕方にはトレビの泉へ。もう完全に観光名所めぐりに徹してます。うんうん、あの店の前をヘップバーンが歩くのをこのあたりからグレゴリー・ペックが眺めていてなんてね。もちろんヘップバーンが髪の毛を切った美容院なんかありません。そして泉のほうに目をやると、アニタ・エクバーグが.....なんて、そんなことあらへん、あらへん。泉の周りは人だらけ。晩ごはん食べてからライトアップされたトレビの泉のほうがまだちょっとはって、そんなことよりトレビの泉のでかさにちょっとおそれいったほうが大きかった。泉が単独に存在してるのでなくて、あの裏側は建物で、要するにトレビの泉はその建物の1つのファサードになってるだけなんだから。
 ところでボクらはもうローマには行けません。というのはトレビの泉にコインを投げ込まなかったからです。

(つづく)
 






■2003/08/24 Sun■  ATGET'S PARIS [長年日記]

 100年前にユジューヌ・アジェという写真家がいた。彼は写真そのものが誕生してまだ間がないときに箱形カメラを抱えてパリの町をひたすら撮り歩いていた。ただただパリの町の記録としての写真を撮り歩いた。荒木経惟も森山大道もハナブサリュウもアジェの残した写真に魅せられて、パリの町を撮り歩いたのだ。
 旅行に出かける前に、ネットでEugene Atget Project 2002を見つけた。さらにそこから、96年アジェ計画を成し遂げたGerald M. PanterのAtget's Paris: Then and Now も見てしまった。(96年アジェ計画については、17日にヨーロッパ写真美術館に行ったとき、その写真集を発見。重いから買わなかった(^_^ゞ)となると、じっとしてられなくなって、そっとTASCHENの『ATGET'S PARIS』をかばんにしのびこませていた。
 アジェの作品には、例えば《25 rue Charlemangne》というように撮影場所データがほとんどについている。だから直前になってmappyで、《25 rue Charlemangne》と検索すればおおかたの位置が知ることができた。そして多分自分が歩き回るだろう地域で20ヶ所くらい地図にチェックも入れた。
 それでも30年ぶりのパリは、ほかにもいろいろと見たいものは山ほどあって、アジェにばかりかかってるわけにはいかない。それに意外とポイント探しというのは退屈なことはわかっている。ガイドブック(『ATGET'S PARIS』はガイドブックじゃないが)で見た場所に行き、その場所で記念写真を撮ることで満足してしまう旅なんて、と日頃からバカにしてたから、時間があれば、アジェの写した場所に行ってみたいなというくらいにしか考えてなかったのだ。

 さて、いよいよパリ。初日14日はルーブル、ポンピドーで疲れきって、ノートルダムの前を通り、サン・セブリン教会のところを通って、やけにカフェやレストランが多くて、人がいっぱいで、『パリの横丁・小路・裏通り』(早川雅水著 実業之日本社)で読んだ印象とはずいぶんちがうなぁと思いながら、確か、このあたりにもアジェが写したポイントがあったはずと通り過ぎてしまった。少しだけそのまま歩くと、裏通りでやけに静かで行き止まりっぽい道に入った。ん、ひょっとすると、これはロアン小路に入るところかと地図で確認。しかり。そのロアン小路は『パリの裏通り』にもいま歩いている「ジャルディネ通りから入るのがいちばん」と書かれてた。それに何と言ってもアジェの写したロアン小路の写真は印象に残っていた。ラッキー!
 ジャルディネ通りがロアン小路となるところには門があったが、これは開かれたままになっていた。その門を入ると、まさにたしかにアジェの写真の印象が甦ってきた。うん、うんと、自分一人でうなづいてちょっと興奮。実はその日は『ATGET'S PARIS』は持ち歩いてなかったのだ。先にも書いたように、ポイント探しに終始してしまうのがイヤだったし、それに小さい本とはいえ重いから。
 ロアン小路を抜けてサンタンドレ通りの方に出る門は閉まっていた。『パリの裏通り』には、「門は閉まっていても押してみなさい」と書かれてあったが、その本からもう5年ほど、その間に、時代の趨勢なんだろう、きっちりセキュリティシステムがこのロアン小路にも入ってきていた。それはそれで仕方がない。ある程度、パブリックな通りでなくてプライベートな小路なんだから、ヨソ者がずかずか入り込むのもどうだか。というわけでおとなしくそこから引っ返して、ロアン小路の反対側に回った。
 ところでロアン小路の反対側にはプロコップというパリで一番最初にできたというカフェがあって、ランチなんかはそう高くないというふうに『パリの裏通り』には書かれてあった。表に貼られたメニューを見ていると、夜はそうでもなくて、カフェというよりきっちりしたレストラン。お呼びじゃない、というわけでもないのだけれど、スペインあたりから腹の調子が疲れ気味で、きっちりとレストランで食べようという気にもなれなくて、機会があればお昼に食べに来ようと断念。結局、パリ滞在中はお昼の時間は、いつもどこかをほっつき歩いていたのでプロコップでお昼というのは果たせなかった。

 デジカメのメモリは128Mを2枚持って行ってたのだが、2週間の旅行で足りるわけがなくて、1日1枚でも足りないというのはわかっていたから、夜ホテルに戻ると、デジカメのデータを、G4ノートに移すのが日課になっていた。その夜は、写してきたロアン小路とアジェのロアン小路を比べようと、『ATGET'S PARIS』を出してきて見てた。う〜ん、だいぶ角度が違うよな、せっかくなんだから同じ角度で撮ってみたい、あしたもういっぺんロアン小路に行こう、なんて考えていた。そうしてぱらぱらと他の写真も見ていてビックリした。

 《Coin des rues de Seine et de l'Echaude-Saint-Germain》

 荒木経惟が『10年目のセンチメンタルな旅』で「シャッターひと押し、アジェを越えた」と書いてるように、鋭角に道が交わったところというのはとてもフォトジェニックで、こっそりボクは「アジェする」なんて言うてんだけど(笑)、碁盤目の日本とちがって、放射状のヨーロッパは、そのアジェできるところがいっぱいある。いっぱいあって、はじめのうちは喜んでアジェしてたんだけど、そのうちよっぽど気にならないとアジェしなくなった。
 ところでこの朝、ホテルのあるジャコブ通りからルーブルに行こうと、ドラクロワ美術館に寄ったあと、セーヌ通りに出たところでふっとアジェしていた。な、なんと、いま目の前にある『ATGET'S PARIS』の写真は、その朝、ボクがアジェしたのと同じじゃないか。これには興奮した。自分が写したデジカメ画像と『ATGET'S PARIS』を交互に見比べた。まるでアジェが黙ってボクをその場所に引っ張っていき、シャッターを押させたような。ふつうじゃ行き着かないロアン小路にも。事実、地図はもってはいたけれど、適当に歩いているうちにロアン小路に続くジャルディネ通りに入り込んでいたのだ。まさにアジェに手招きされたとでもいうように。
 それにはっきりどことはわかっていないが、アジェのかつてのアパートは、セーヌ左岸のまさにジャコブ通り近くだった。だからそのポイントをアジェがカメラに収めていても不思議じゃない。アジェの写真に5区が非常に多いのもそのせいなのだ。ボクはアジェのアパートがそのあたりにあったというのを、パリのホテルをジャコブ通りのマロニエに決めてから知った。余談だけれど、マレのジャンヌダルクにするか迷っていた。これもあとでわかったのだけれど、ジャンヌダルクは森山大道が最初のパリで滞在したホテルだった。となると、森山大道というより、やっぱりパリはユジューヌ・アジェにおびきよせられたとしか考えられないんじゃないか。
 こうなると、かっこつけて、ポイント探しに終始するのはつまらないなどといってられなくなった。つぎの朝、一番にアジェが写したであろう位置を探す。『ATGET'S PARIS』を手に同じ角度に見える位置を探す。路上駐車のクルマが邪魔。う〜ん、このクルマの位置か、もうちょっとクルマの後ろか。そうすると、クルマで道路が写り込まなくなるじゃないか。そうして何枚か写した。もちろんデジカメだけでなく、銀塩でも。焦点距離がアジェのカメラと違うから思うように収まりそうで収まらない。そうして『ATGET'S PARIS』と見比べながら、狙うのにすっかり夢中になってしまった。100年前のアジェと同じ位置に立って、同じほうにレンズを向けるという、ちょっとした興奮がたまらない。何の変哲もない建造物にカメラを向けているけったいな日本人。その日本人を見ていたおっちゃんに思わず、『ATGET'S PARIS』を示して、「100年前と同じだ」と英語で口走ってた。気のいいおっちゃんは「うんうん同じだナ」とうなづいてくれた。

 そうしてその後、10数ヶ所、あまり見つけにくい場所ではないけれど、いわゆるアジェ・ポイントを写した。中にはすっかり変わってしまったのもあった。確かにこの場所のはずなんだけれど、と思案しても、全く消滅してしまったものもある。100年の時間の流れの重さを感じ、それでも見つかったときには、100年という時間を越えた歴史を見ているようで楽しかった。

 《まご版アジェ2003》

 


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