雨降りの中、大阪芸大までアンリ・カルチェ-ブレッソン展を見に行ってきた。芸大に所蔵されている400何点かのブレッソンを3期に分けて一気に展示してくれていて、しかも入場無料という、ほんとありがたいことです。芸大の学生でも全然見もしてないのっているんだろうな。「あたしはデザイン専攻ですから」なんて言って、たとえ専門分野が違おうが、ああいうのは見ておいて絶対に損はないのにね、もっいないことだ。そいうもったいない元学生約1名知ってますがw 1期、2期とずっと見てきて、ほんとおもしろかった。ブレッソンの写真集でよく見かける、例えばサン・ラザール駅の水たまりピョンピョンなどは、やっぱりそれなりにインパクトがあるんだけれど、見たこともないのも展示されていて、そりゃ400数点というのはかなり膨大な量だからね。京都の阿必館でも同じ時期に追悼の意味をこめてブレッソン展が催されているようだけど、ここまで多くはないでしょ。 きょう見たアジアのでは、体に巻いたサリーが右下に向かって曲線を描いているのを写し込まれていて、その造形的な曲線がすごくきれいで印象に残っている。ファッション・フォトじゃないのにね。他にね、モロッコだったかな、海岸で子どもが二人、なかばシルエットになっている写真ね、1933年だって。いまから70年前でしょ。この少年は、ひょっとするともう亡くなってるかもしれず、生きていたとしても80歳を越えたお爺ちゃんになってるんだと。そうしたら、いまぐるっと囲まれている写真の中の人物たちがみんな亡霊のようで、その亡霊たちがあまりに生き生きとしているのがすごいなぁと思った。これって写真の持つマジック・パワーだよね。たった1秒の何十分の1の瞬間がこうして何十年という時間に引き伸ばされるってのはすごくないか。 宦官の写真、これは比較的有名でしょ、あの宦官の手の皺を見ていたら、きのう読んでたレンブラントの、とりわけMargaretha de Geerの肖像についてジャン・ジュネが書いてるのを思い出していた。
「彼がモデルを脱人格化し、事物から固定可能なあらゆる特徴を取り除いたときから、人にも物にも、彼は最大の重み、最大の実在性を与えることになった。」