光悦寺に源光庵はつい4か月ほど前におしのびで来たところだったのが、まぁいいかぁ。この夫婦、ありきたりのところに連れていったんじゃ満足しないだろうし、特に夫さんのほうは去年も一人で京都に来て、自転車で回ったという。をい、高校生か。源光庵のね、迷いの窓と悟りの窓ね、この前のときは迷いの窓のほうに惹きつけられていたのだが、きょうは悟りの窓のほうが引力を感じてしまう。迷いの窓は素の窓にしか見えないんだよ。でもな、よぉく考えてみれば、あの2つの窓が単独であったとしても、何がどうってことないのじゃないか。視界に丸い窓と矩形の窓が同時にとらえられるから、それが脳内回路でコンタクトしてセロトニンの分泌異常…何を言うとるんですか、ようは交感神経と副交感神経みたいなもんだわ。だから、いまは悟りの窓なの。悟りの窓が語りかけてくるの。
ところでさすがテキスト集まりってかね、夫さんがこの前に京都へ来たときのことをテキストにしてるのね。それをまた妻さんはプリントアウトしてきて、車の中でそれを読み始める。その妻の「あなたがそんあに感動したというところを見てみたい」と、その一言で大徳寺へ向かう。大徳寺って何遍も京都へ行ってるけど、一度も入ったことがなかった。知ってることは大徳寺納豆というだけ。これも食ったことない。だって納豆だもん。大徳寺というのは、小さい寺が集まって形成された、ボルボックスのような共同体。なんじゃ、それ? 要するに大徳寺という囲いの中にいくつもの寺や庵が収まっているのであります。それだったらね、ひとつひとつで拝観料取らないで、共通拝観券なるものを出してくれよ。と、あなた、ディズニーランドやUSJじゃないんだから。 瑞峯院。を、石庭なのですねぃ。石庭=竜安寺としか頭にはなくて申し訳ない。石庭を前に修学旅行の高校生数人が坊さんから説教を受けている。「姿勢よくしなさい。」そうそう、丹田呼吸ですよ、大事です。「腰というのはにくづきにかなめ」はい、そうそう、腰は体全体の要になってるからね、大事、大事。あと、むにゃむにゃむにゃ…。この瑞峯院の枯山水の石の粒はとても荒くてごつごつしている。なんか意味があるんでしょう。この枯山水を見て人は何を想ふ。お堂の反対側にもうひとつ小さな石庭があって、これは隠れキリシタンの十字架を著しているというのはレクチャーされてた。なるほどねと見ていると、先程の坊さんが現れて、この後ろにある灯籠の下にマリア様が埋められていて、その灯籠からこのお庭を見ますと、十字架になるのであります。」 龍源院。ここの東滴壺という小さな小さな石庭が、夫さんがこの前の京都一人旅でいたく感動したという石庭。ボクはっていうと、兎を狙う狼の眼になってしまって、いけませんねぇ、仮にも禅寺でしょ、すべての煩悩を断ちきって悟りの境地に入らないといけないのに、お庭を前にたたずむ人たちが何想ふのか気になっていけない、いけない。土門拳の土俵に引っ張り込まれた荒木経惟の気分だわ(笑) うん、なるほど、そうか、そうか、光の量がいいんだねなどとてきとーなことを言っておく。