やっぱり悩みなんてないや。
こないだとこり夫妻と京都行ったときのこと、《それにしても、源光庵の窓の前でのまご兄のまじめな顔つきは、なかなか忘れがたい印象を残しております。》(INPUT★OUTPUT blog版 9/22)とな。「迷いの窓」に「悟りの窓」ね。そのことはまご日記の9/19にも書いたのだが、「迷いの窓」に吸い込まれて行くのか「悟りの窓」に吸い込まれて行くのか、それがこないだは「悟りの窓」に引力を感じてしまってる。不思議だなぁと思ってた。決して禅宗でいうところの「悟り」などとはほど遠く、相も変わらず煩悩だらけで生きてるはずなのに。少しは悟れよということなのか、どうして「悟り」なんだろうと考えこんでしまってた。そしてそのあと大徳寺に行って、ちょっと美人のお姉さんが石庭を前にひとりで想いに耽ってるのを見て、ボクもつい感情移入してしまってる。《いつものエロギャグ炸裂のおちゃらけおじさん》(ほっとけ!)にもいろいろ想うところはあるのだよ。 悩みとはすべからく煩悩なり。