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うらまご/まごまご日記/まごっと/まごれびゅ/P-FUNK/maggot

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■2003/08/02 Sat■  行ってきます [長年日記]

 なんだか、ほっといたらいつの間にか8月で2週間からここもほっちっち。この間、何もなかったかというとそうでもなくて、何かあったかというと、またそうでもないという、どうでもいいような日々が続いていたのです。そしてたぶんあしたは書かないでしょうから、これから先、また2週間以上、ここはほっちっちにしてしまうわけで、人間ちゃんとキリだけは付けとかないときまりが悪い。先に書いておきますと、あさって月曜からまる2週間の予定で、ヨーロッパに行くのですが、ひょっとしたらサンドニ街の裏で死んでしまうかもしれず、そうなるとこれが絶筆になる可能性もあるのです。だからちゃんとキリよくしておかないといけません。というわけで、くだくだと書くわけですが

 先週の日曜、つまり7/27に京都に横尾忠則展《横尾by ヨコオ》を見に行った。ある意味でボクにとって横尾というのは30年からのアイドルだったんだけれど、そのくせ横尾の作品の熱心なファンというわけでもなかった。ボクにとっては横尾は『新宿泥棒日記』の横尾であり続けたし、良くも悪くも『腰巻きお仙』に始まって『腰巻きお仙』に終わってしまってた。ここ1年ほどボクに余裕ができて、横尾の作品集なんかを集めまくったりしてはいたけれど、その中で触れるか、あるいはあちこちで目に触れるポスターの中でしか横尾じゃなかったんよね。実際に現物を目にすると、これは当然といえば当然なんだけれど、とくに横尾の絵画の質感なんてのは印刷されたものとは比べ物にならない。あゝ、今までそんな中で充足してしまってたのかって痛く思い知らされてしまった。やっぱり現物に勝るものはないやね。そういう意味で、あと数日後に目にするであろうカラヴァッジオにひどく期待してる。
 話は横尾に戻しますが、火曜日にはキャサリンも京都に見に行って、(変な夫婦でしょ、一緒に見に行けばいいのに)で、きょうその横尾展の話を二人でしてたんだけど、《作家蔵》と記された作品が非常に多いのね。これって横尾というのはかなりのナルシストじゃないかと思うわけ。自分の作品が愛おしくて手放したくないんじゃないかな。それからキャサリンが見に行ったときには、田舎のおばさんたちが来ていて、「わたしはどこにあるんだろ。○○さんは何ヶ所にもあるらしいんだけど」とか、どうも横尾の西脇時代の同窓生らしくて、その当時の顔写真がコラージュされてちりばめられてる。それだけでなく、ルーベンスの模写があったりして、《レウキッポスの娘たちの略奪》 これルーブルで見れるかと思ってたのに、ミュンヘンにオリジナルがあるんだね。とにかくおもしろくて興奮してしまった。キャサリンなんかは3時間近くかかって見てたらしいよ。

 それからここしばらくしてたことはヨーロッパ、とくにパリの街区の下調べ。ネットでmappyという、日本で言うとマピオンとかの地図サイトを見つけて、ばんばんプリントアウトしては繋ぎあわせた地図を見て、勝手に想像してた。ひょんなことから、《rue de Eugene Aget》 なんていう通りを見つけたときには大喜び。ここは絶対に行かなければ。《rue de Eugene Aget》で検索かけたわけでもなくて、ほんとに偶然だから、たまたまそのあたりの地図をモニターに出して見ていて、もっとも細かい地図に切り換えたときに、《rue de Eugene Aget》って出てきたのだ。まさにAgetが手招きしているかのよう。そのあたりを歩き回っていてもひょっとすると行き当たって、驚喜してるかもしれないけれど、偶然ってすごいなぁと思うわけ。さらに引っ張れば、「地球の歩き方」なんかのガイドブックを見ているだけでは、まず行き着いてなくて、それもたまたま『パリの裏道』という本を図書館で見つけたことに端を発している。それから『ライカ同盟パリ開放』から、パリの『郊外へ』という本を見つけたり、《rue de Malcel Duchamps》なんかも見つけ出したのを考えてみると、偶然とはいえ、そこにはかなりの必然も入り込んでいるなぁとつくづく思う。

 というわけで、行ってきます。また帰ってきたら、いっぱいいっぱい書くことが必然的にあると確信して。

 


■2003/08/24 Sun■  ATGET'S PARIS [長年日記]

 100年前にユジューヌ・アジェという写真家がいた。彼は写真そのものが誕生してまだ間がないときに箱形カメラを抱えてパリの町をひたすら撮り歩いていた。ただただパリの町の記録としての写真を撮り歩いた。荒木経惟も森山大道もハナブサリュウもアジェの残した写真に魅せられて、パリの町を撮り歩いたのだ。
 旅行に出かける前に、ネットでEugene Atget Project 2002を見つけた。さらにそこから、96年アジェ計画を成し遂げたGerald M. PanterのAtget's Paris: Then and Now も見てしまった。(96年アジェ計画については、17日にヨーロッパ写真美術館に行ったとき、その写真集を発見。重いから買わなかった(^_^ゞ)となると、じっとしてられなくなって、そっとTASCHENの『ATGET'S PARIS』をかばんにしのびこませていた。
 アジェの作品には、例えば《25 rue Charlemangne》というように撮影場所データがほとんどについている。だから直前になってmappyで、《25 rue Charlemangne》と検索すればおおかたの位置が知ることができた。そして多分自分が歩き回るだろう地域で20ヶ所くらい地図にチェックも入れた。
 それでも30年ぶりのパリは、ほかにもいろいろと見たいものは山ほどあって、アジェにばかりかかってるわけにはいかない。それに意外とポイント探しというのは退屈なことはわかっている。ガイドブック(『ATGET'S PARIS』はガイドブックじゃないが)で見た場所に行き、その場所で記念写真を撮ることで満足してしまう旅なんて、と日頃からバカにしてたから、時間があれば、アジェの写した場所に行ってみたいなというくらいにしか考えてなかったのだ。

 さて、いよいよパリ。初日14日はルーブル、ポンピドーで疲れきって、ノートルダムの前を通り、サン・セブリン教会のところを通って、やけにカフェやレストランが多くて、人がいっぱいで、『パリの横丁・小路・裏通り』(早川雅水著 実業之日本社)で読んだ印象とはずいぶんちがうなぁと思いながら、確か、このあたりにもアジェが写したポイントがあったはずと通り過ぎてしまった。少しだけそのまま歩くと、裏通りでやけに静かで行き止まりっぽい道に入った。ん、ひょっとすると、これはロアン小路に入るところかと地図で確認。しかり。そのロアン小路は『パリの裏通り』にもいま歩いている「ジャルディネ通りから入るのがいちばん」と書かれてた。それに何と言ってもアジェの写したロアン小路の写真は印象に残っていた。ラッキー!
 ジャルディネ通りがロアン小路となるところには門があったが、これは開かれたままになっていた。その門を入ると、まさにたしかにアジェの写真の印象が甦ってきた。うん、うんと、自分一人でうなづいてちょっと興奮。実はその日は『ATGET'S PARIS』は持ち歩いてなかったのだ。先にも書いたように、ポイント探しに終始してしまうのがイヤだったし、それに小さい本とはいえ重いから。
 ロアン小路を抜けてサンタンドレ通りの方に出る門は閉まっていた。『パリの裏通り』には、「門は閉まっていても押してみなさい」と書かれてあったが、その本からもう5年ほど、その間に、時代の趨勢なんだろう、きっちりセキュリティシステムがこのロアン小路にも入ってきていた。それはそれで仕方がない。ある程度、パブリックな通りでなくてプライベートな小路なんだから、ヨソ者がずかずか入り込むのもどうだか。というわけでおとなしくそこから引っ返して、ロアン小路の反対側に回った。
 ところでロアン小路の反対側にはプロコップというパリで一番最初にできたというカフェがあって、ランチなんかはそう高くないというふうに『パリの裏通り』には書かれてあった。表に貼られたメニューを見ていると、夜はそうでもなくて、カフェというよりきっちりしたレストラン。お呼びじゃない、というわけでもないのだけれど、スペインあたりから腹の調子が疲れ気味で、きっちりとレストランで食べようという気にもなれなくて、機会があればお昼に食べに来ようと断念。結局、パリ滞在中はお昼の時間は、いつもどこかをほっつき歩いていたのでプロコップでお昼というのは果たせなかった。

 デジカメのメモリは128Mを2枚持って行ってたのだが、2週間の旅行で足りるわけがなくて、1日1枚でも足りないというのはわかっていたから、夜ホテルに戻ると、デジカメのデータを、G4ノートに移すのが日課になっていた。その夜は、写してきたロアン小路とアジェのロアン小路を比べようと、『ATGET'S PARIS』を出してきて見てた。う〜ん、だいぶ角度が違うよな、せっかくなんだから同じ角度で撮ってみたい、あしたもういっぺんロアン小路に行こう、なんて考えていた。そうしてぱらぱらと他の写真も見ていてビックリした。

 《Coin des rues de Seine et de l'Echaude-Saint-Germain》

 荒木経惟が『10年目のセンチメンタルな旅』で「シャッターひと押し、アジェを越えた」と書いてるように、鋭角に道が交わったところというのはとてもフォトジェニックで、こっそりボクは「アジェする」なんて言うてんだけど(笑)、碁盤目の日本とちがって、放射状のヨーロッパは、そのアジェできるところがいっぱいある。いっぱいあって、はじめのうちは喜んでアジェしてたんだけど、そのうちよっぽど気にならないとアジェしなくなった。
 ところでこの朝、ホテルのあるジャコブ通りからルーブルに行こうと、ドラクロワ美術館に寄ったあと、セーヌ通りに出たところでふっとアジェしていた。な、なんと、いま目の前にある『ATGET'S PARIS』の写真は、その朝、ボクがアジェしたのと同じじゃないか。これには興奮した。自分が写したデジカメ画像と『ATGET'S PARIS』を交互に見比べた。まるでアジェが黙ってボクをその場所に引っ張っていき、シャッターを押させたような。ふつうじゃ行き着かないロアン小路にも。事実、地図はもってはいたけれど、適当に歩いているうちにロアン小路に続くジャルディネ通りに入り込んでいたのだ。まさにアジェに手招きされたとでもいうように。
 それにはっきりどことはわかっていないが、アジェのかつてのアパートは、セーヌ左岸のまさにジャコブ通り近くだった。だからそのポイントをアジェがカメラに収めていても不思議じゃない。アジェの写真に5区が非常に多いのもそのせいなのだ。ボクはアジェのアパートがそのあたりにあったというのを、パリのホテルをジャコブ通りのマロニエに決めてから知った。余談だけれど、マレのジャンヌダルクにするか迷っていた。これもあとでわかったのだけれど、ジャンヌダルクは森山大道が最初のパリで滞在したホテルだった。となると、森山大道というより、やっぱりパリはユジューヌ・アジェにおびきよせられたとしか考えられないんじゃないか。
 こうなると、かっこつけて、ポイント探しに終始するのはつまらないなどといってられなくなった。つぎの朝、一番にアジェが写したであろう位置を探す。『ATGET'S PARIS』を手に同じ角度に見える位置を探す。路上駐車のクルマが邪魔。う〜ん、このクルマの位置か、もうちょっとクルマの後ろか。そうすると、クルマで道路が写り込まなくなるじゃないか。そうして何枚か写した。もちろんデジカメだけでなく、銀塩でも。焦点距離がアジェのカメラと違うから思うように収まりそうで収まらない。そうして『ATGET'S PARIS』と見比べながら、狙うのにすっかり夢中になってしまった。100年前のアジェと同じ位置に立って、同じほうにレンズを向けるという、ちょっとした興奮がたまらない。何の変哲もない建造物にカメラを向けているけったいな日本人。その日本人を見ていたおっちゃんに思わず、『ATGET'S PARIS』を示して、「100年前と同じだ」と英語で口走ってた。気のいいおっちゃんは「うんうん同じだナ」とうなづいてくれた。

 そうしてその後、10数ヶ所、あまり見つけにくい場所ではないけれど、いわゆるアジェ・ポイントを写した。中にはすっかり変わってしまったのもあった。確かにこの場所のはずなんだけれど、と思案しても、全く消滅してしまったものもある。100年の時間の流れの重さを感じ、それでも見つかったときには、100年という時間を越えた歴史を見ているようで楽しかった。

 《まご版アジェ2003》

 


■2003/08/25 Mon■  『ローマの休日』『甘い生活』をめぐって [長年日記]

 この2年間ほど、映画を見続けてきた。映画を見たといっても、怠惰なボクのことなので、そのほとんどが家で寝転がってビデオで映画を見ていたわけだから、ほんとに映画好きな人からすれば邪道といえるかもしれない。それはそれとして、映画を見ることより、まごれびゅを書き続けることのほうに意地はっていたようなときもあって、全くもって主客転倒です。そのころは手当たり次第、何でもかんでも見てたりしたのだけれど、最近はまごれびゅを書くペースも落ちて、じっくり自分の好きな映画だけ見るようになった。つまりヨーロッパ映画か、邦画。それもかつて若いころに見たことのある映画がかなり多くなった。それが是か非かはいまはおいといて、今度の旅行に出る前に見たのが『ローマの休日』と『甘い生活』
 ローマは初めてだったので、やっぱりきっちり予習しておかないと。映画の中の1シーンに立ちあうのも悪くないでしょ。自分が映画の中の1シーンに出ているかのような錯覚にときとして陥るのも。ははは、最後の最後にはちゃっかりポンヌフの上で『ポンヌフの恋人』よろしく記念写真撮ってるんですけど(笑)

 ローマのホテルが、スペイン広場のすぐ近くで、ホテルに着くとすぐに出かけたのが、スペイン広場。ヘップバーンにグレゴリー・ペックが声をかけた位置なんかまで覚えていたけれど、スペイン広場は人がいっぱい。それにまさかあのシーンの真似をするわけにもいかんでしょ。ところがスペイン広場には花売りがいて、『ローマの休日』ではヘップバーンが、お金持ってないと言うと、1本だけヘップバーンに持っていっていいよというのだったけれど、いまは最初から1本だけ目の前に差し出してくる。差し出されたばらの花1本を思わずマーニャは受け取って、をっ映画と一緒やんか、粋なことするやんか....なんて、そんなはずが今のご時世にあろうはずがない。受け取ったマーニャも困って、日本語で「これ金くれとちゃうん」とボクに聞いてきた。もちろんばらは返したけれど、案の定、そのあと行く先々の広場で同じような花売りがおったよ。
 ローマのガイドブックには、いまもスペイン広場にはジェラートが売られているが、スペイン広場の階段で食べることは禁止されている、と書かれていた。まぁそれも映画のシーンの真似をする気はないんだけれど、実際、スペイン広場の階段の下にはジェラート屋はなくて、階段を上がりきったキオスクでジェラート売っていた。もちろん、それもきっと高いだろうからと買わなかった。そこからちょっと歩いたさびれたカフェにジェラートがあったので、すぐに買ってしまうあたりミーハーです。が、甘いばかりで美味しくなかった。
 ローマで最初に行こうとしたのはヴェネト通り。もちろん『甘い生活』です。ちょっと道を間違えて遠回りをしたけれど、なんとかヴェネト通りに着いたのが8時を回ってたかな。8時といってもサマータイムなのでまだまだ明るい。さっきのスペイン広場の人いっぱいに比べて、ぐっと人は少なく、まわりもどことなくオシャレで、東京でいうなら青山って感じだったけど、店はほとんど閉まっていた。バカンスのせいか、時間がまだ早かったせいか、『甘い生活』では夜の六本木然としていたのに、肝心のカフェ・ド・パリも通りのテラスには誰も座ってなくて肩透かしを食らわされたみたい。そのまま歩いていくと前に城壁が現れて、をを〜って、ヨーロッパ初日だったせいもあって、このあたり浮かれ気分で、ハリーズ・バーのテラスでエスプレッソ。いま考えるとけっこう高かったような。ハリーズ・バーはけっこう観光客ずれしていて、たぶんあのテラスに座っていたのは全員観光客だったんじゃなかろか。イタリアだからギャルソンとは言わないんだろうな、要するにボーイさんがカメラを見つけてシャッター押したげよかと、まずはヨーロッパ最初の記念写真。
 ン〜、こんなふうに、映画『甘い生活』と現実の違いを見せつけられて、長い地下道を抜けてスペイン広場の方に戻った。しばらくはコンドッティ通り周辺のウィンドーショッピングをしながらぶらぶら歩いていると、ふっとポポロ広場に出てしまった。夜遅くのポポロ広場に座って、ヨーロッパに来たなぁとしみじみ。この解放感はやっぱりラテンやんなぁって。
 ポポロ広場まで来てしまったら、かのマルグリット通りもすぐだし、ホテルへの帰り道なので、当然のようにマルグリット通り51番地を見ていこうと、ほんまミーハーでしょ。当たり前のことだけれど、映画『ローマの休日』と現実はちがうわけで、愕然となんかするわけなくて、ふ〜んって感じ。当然、中庭に入る門は固く閉まっていて、いちおうここがグレゴリー・ペックのアパートとなったところねって。
 ところで、7日の朝に一人で散布に行ったとき、ホテルからマルグリット通り51番地まではほんの5分くらいで、ラッキーにもその表の門は開いていたので、中を覗いてきた。はい、映画と全然違います。映画ではその中庭はセットなんだよねぇ。
 2日目にはバチカンに行ってカトリック総本山の凄さを見せつけられたんだけど、クーポラの上まで上がったときに、この上をキリストをぶら下げたヘリコプターを飛ばしたフェリーニってのは、といたく感動した。よくあんなシーンを撮れたな、よく公開できたなって。バチカンを見たらそのフェリーニの凄さがわかる。
 そして夕方にはトレビの泉へ。もう完全に観光名所めぐりに徹してます。うんうん、あの店の前をヘップバーンが歩くのをこのあたりからグレゴリー・ペックが眺めていてなんてね。もちろんヘップバーンが髪の毛を切った美容院なんかありません。そして泉のほうに目をやると、アニタ・エクバーグが.....なんて、そんなことあらへん、あらへん。泉の周りは人だらけ。晩ごはん食べてからライトアップされたトレビの泉のほうがまだちょっとはって、そんなことよりトレビの泉のでかさにちょっとおそれいったほうが大きかった。泉が単独に存在してるのでなくて、あの裏側は建物で、要するにトレビの泉はその建物の1つのファサードになってるだけなんだから。
 ところでボクらはもうローマには行けません。というのはトレビの泉にコインを投げ込まなかったからです。

(つづく)
 






■2003/08/26 Tue■  『ローマの休日』『甘い生活』をめぐって [続] [長年日記]

 行く直前にデ・シーカ監督の『ア・モーレ』という映画見てたんだけど、その映画で電話の「もしもし」がイタリア語では「プロントプロント」なのね。これ実際、ローマで電話してるのによく出てきた。いまイタリアは携帯がどこもおかまいなし状態。どこかの国のように携帯に目くじらなんか立てないから唖然とする。あっちこっちで「プロント、プロント」

 さてフィレンツェに日帰りで行ったとき、ウフィツィ美術館で1時間半も待たされて、その間、東京のナース3人組と話してたら、彼女たちは『甘い生活』の舞台だったなどと知らないでカフェ・ド・パリに行ったとか言う。夜遅くだったのでけっこう人もいたとか言うので、こりゃやっぱりもういっぺん行かないとというわけで、フィレンツェから帰ったその足でヴェネト通りへ。フィレンツェで晩ごはん食べなかったら、ちょっと遅い目だけど軽く何か食べようって。
 ローマに列車で戻ってきたのが11時半過ぎ。そこから歩いて(アフォです)カフェ・ド・パリに着いたのが12時半。カフェ・ド・パリに客はおらんことはなかったけれど....もりろん、マルチェロもパパラッチもおりませんでしたよ。ちょっと虚しかったな。「君は間違っている。僕もだけれど...」というマルチェロのことばが妙に心に響くだけ。『甘い生活』から40年か。あの映画の中のヴェネト通りの喧騒ってもうとうに過去のことなのかなぁ。いまはしっとりとオトナの町になってしまっていた。もしローマに行くことがあって、そしてバカンスの時期でないのなら、もう一度、そこに座ってみたいという心残りができてしまった。

 さてローマの最終日8日になって、ナヴォーナ広場周辺を歩いた。ここもホテルから歩いて行ける距離で、その日一日で2往復もしてるんだから。コベルト・ベッキオ通りなんて何度行ったり来たりしたことか。この通りにヌオヴォ教会というのがあるんだけれど、実はこの教会に時計塔があって、その時計塔こそが、マルグリット51番地のグレゴリー・ペックの部屋から見える時計塔だと、どこかで読んだんだけどね。別にその時計塔が見たいというほどの『ローマの休日』フリークじゃないよ。その証拠に真実の口なんかも行かなかったし、ただベッキオ通りあたりは歩いてみたかったから、そのついで。ところが、その時計塔って通りから見えないんだよなぁ。けっこうその周辺をうろうろしてたから、どこかから見えてもよさそうなのに。もちろんマルグリット51番地から見えません。もしそのヌオヴォ教会の時計塔だと言う話が間違いでないのなら、映画はまったくのウソですね。都合のいいように場所をくっつけてしまう。そんなことはわかりきってるわけで、例えばマルグリット通りのアパートを抜け出たヘップバーンがいきなり市場のような雑踏に紛れてしまうのだけれど、マルグリット通りはアンチックやブティックがちょこちょこっとある静かな通りだしね、その分で言うと、ヴェネト通りの雑踏も映画のウソかも。

 パリに移って、こっちはローマ以上に、映画のロケ現場というのがうじゃうじゃあるんだけれど、きりがないので全然チェックして行かなかった。ただ1ヶ所、『アメリ』のカフェ・ムーランだけ。一時は『アメリ』人気で行列ができるくらいだったらしいけれど、いまは客もぽつぽつとしかいなくて、店の奥に貼ってあるアメリのポスターがなんか侘びしかったなぁ。モンマルトルをムーランルージュの右側の通りレビュック通りを上がって行って左側。店のテントに《TABAC》なんかとも書かれてあって、おしゃれな店って感じとはほど遠かった。もちろん入ってませんよ。『アメリ』は、『ローマの休日』や『甘い生活』なんかに比べるとほとんど思い入れなんかないので、どの場面でカフェ・ムーランが出てきたかも記憶にないのです。そのくせ「クリームブリュレのおこげをこちこちと割るのが好き」に乗って、パリでは3日続けてクリームブリュレ注文してんだもん。さすがに市場で豆に手をつっこむということはしませんでしたが。

 4都市回って思ったのは映画館の多さ。もちろんハリウッドがヨーロッパにも進出してきてはいるけれど、町の中心からちょっと外れたところ、例えば、マドリッドでも、ソル広場から5分も歩けば、観光客もあまり来ない生活臭がぷんぷん漂うところ、肉屋の隣なんてところに、町の小さな映画館がある。をっ、『ANA+OTTO』やんか。こんなところでめぐりあうとはネ。スペイン映画だからスペインでかかっていて当たり前だろうけれど、『セクシャリティーズ(La Mirada del Otro)』もかかっていて喜んでしまう。パリになると当然のように映画館が多いなぁ。カルチェ・ラタンなんかには何軒も小さな映画館があって、ちょうど前を通ったときにフェリーニがかかっていて、前に並んでいる人種が、やっぱり日本でフェリーニやゴダールがかかったときに並んでいる人種と似てたりして笑えた。ちゃんと値段を見てないけれど、きっと日本なんかに比べれば安いんだろうな。それくらいヨーロッパじゃまだまだ映画がウェイトしめてのがちょっと羨ましかった。日本はテレビ見過ぎなんだよなんてぼやいてみたりして、あ、アメリカじゃ、いくらでも見かけたレンタル・ビデオ屋がほとんどなかったな。やっぱり映画はビデオじゃなしに映画館で見るものなんだ。

 








■2003/08/28 Thu■  カルボーナーラ [長年日記]

 イタリア、スペイン、フランスときたら食う物に困る。アメリカだったら、食うもんなんかなんもないので、バーガーキングで十分なんて、言うてられるんだけれど、この3つの国となると、あれも食いたい、これも食いたいと、だから出る前には、太って帰るんじゃないかと心配だった。

 30年前に、ヨーロッパに旅行したとき、そのときはイギリス、フランス、スペイン、スイスを1ヶ月かけて旅行したんだけど、こんなに美味いクロワッサンがあったのかと驚嘆し、はたまたガーリックの味が忘れられなくて、夢よもう一度ってわけなのです。

 それは夢にまで見た(そ、そんな大袈裟な)、カサ・ボティンのガーリックスープが30年のときを経て目の前に出てきたときは、そりゃあ感激しましたです。少しどろっとしたスープにスプーンを入れて口に運んだとき、臭くはないニンニクの香りとともに口の中にひろがるまったりとしたこくには涙が出てきそうになった。が、感激したのは、そのガーリックスープの美味さにあったのでなくて、30年の時間を経てもう一度口にできたというほうに感動していたのだった。
 考えてみると、この30年間という時間は残酷ですよ。要するに涙を流すほどのガーリックスープでさえも、特別な味とは思えなくなってしまっていたのだ。

 この30年間の間にどれだけ日本の食が進んだか。例えば、スパゲッティは、いつの間にかパスタと呼ばれるようになり、スパゲッティといえば、ナポリタン(なんてのは現地には存在しないらしいのだが)という、良く茹で上げた18mmくらいのスパゲッティにハムとたまねぎ、あとピーマン、ひどいときにはニンジンなどが炒められ、トマトピューレじゃなくて、トマトケチャップで味付けされたイタリア風焼きそばだったのです。なのにアルデンテなんていう言葉まで一般に通用するようになって、日本のスパゲッティは変わってしまった。
 コーヒーしかり。コーヒーも30年前以前にはほとんど大半がネスのインスタント、それもフリーズドライの顆粒じゃなくて細かい粉(いまでも売っているが)をスプーンに一杯。それに今じゃ信じられないだろうが、イチゴにかける練乳を入れる、そんなコーヒーを日本人は飲んでいたのでした。インスタントでないコーヒーを飲みたかったら喫茶店に行けというようなありさまで、ようやくその30年前になって、家庭でもぼちぼちコーヒーをドリップで淹れるようになったころだったのです。だからエスプレッソでブシュっと抽出されたコーヒーが30年前のヨーロッパ旅行のときには、どれだけ新鮮で、美味く感じてしまったものか。

 結論を言ってしまえば、食い物に関しては、わざわざヨーロッパくんだりまで出かけなくても、日本で十分。日本のイタ飯がどんなに美味いか。イタ飯だけでなく、フランス、スペインもそう。
 なんで、こんな淋しい結論に達してしまうかというと、それにはいろんなファクターがあって、ボク自身でまだよくわからないことがある。毎朝、パリのホテルの朝食で出てくるクロワッサンもバケットも確かに美味しかった。それにバターは発酵バターだったしね。コンビニの袋詰めにされて5つほど入ったクロワッサンなんてクロワッサンじゃないけれど、パリで食ったクロワッサンなら日本でも探せば食えるんじゃないか。う〜ん、こうして書きながらも、まだどうなのかと迷ってる。
 我が家で作るヨー飯(面倒なのでイタリア、フランス、スペイン料理をまとめた。洋食とはちょっとちがう)で、カルボナーラ、これはかなり自信ありなんだけれど、本場、イタリアじゃどうなんだと、ローマ4日おる間に2回も食ったんだよ。で、我が家で作るカルバナーラと比べてどうだったというと、?が3つほどつくんだね。まず非常に塩辛い。しょっぱいのだよ。この一番大きな原因は食材の差。チーズが違う。だから、その分でいうと、本場イタリアのほうがもちろん本場の味なわけで、うちのカルボナーラはまちがっている、本ものとはちがう、ごまかした味になっている。が、あのしょっぱさはどうなのか。あれで良しなのか。それとぼそぼそとした食感。これもうちのカルボナーラは玉子を麺の余熱で固められない、つまりそれだけ手際よく作れないのが原因しているのかもしれない。が、そのぼそぼそとした食感と、滑らかなクリーミーな食感と比べると、クリーミーなほうが美味しいと感じてしまうのだ。
 ここでひとつの結論は、日本は、この30年の間に飛躍的にヨー飯に関して進化した。そして日本人の口に合うようにアレンジされてきた。しかも旧来のスパゲティナポリタンと差別化するためにより洗練させてきた。ところが、ヨーロッパでは、それが極く当たり前の食べ物なので、あたかも玉子焼きがそうであるように進化することはないわけだ。う〜ん、その差、エアポケットのようなところにはまってしまったような気がする。
 と、書いてみて、じゃあ、オムレツはどうなんだという疑問が湧いてきた。より早く日本に移入されたオムレットは、どんどん日本で進化して、もとのオムレットとはまったく別の食べ物に変化してしまった。もはや進化じゃなく変化。そうして洋食というひとつの日本料理になってしまった。もはや、オムレツとオムレットは比較できない。ということはカルボナーラも同じ轍を踏んでいくのか。さてイタリア人が日本に来て、カルボナーラは食べたときに、ボクらがヨーロッパで寿司を見て違和感を感じるのと同じことになっているのか。

(つづく)
カサ・ボティン ヘミングウェイが『日はまた昇る』の中でかいた。マドリッドの有名レストラン。高級店ではないので、30年前の貧乏旅行のときにもそこで食べることができた。
 






■2003/08/29 Fri■  欧羅巴食慾綺譚 (2) [長年日記]

 英語はなんとかなっても、イタ語、スペ語、フラ語はどれもからっきしダメで、これって食い物注文するときに非常に困る。カサ・ボティンなどの観光客の多いところなんかでは英語のメニューが用意されてたりしてなんとかなるんだけれど、入ったレストランの大半は現地のことばでしかメニューが用意されてない。いちおうフィッシュ?ミート?とか聞けるけれど、その程度であとは、えい、やぁ〜っと何が出てくるかのお楽しみ。

 まずびっくらこいたのが、バルセロナのノウ・サリューというレストラン。ここは2回行ったのだけれど、はじめは金曜日だったのでその日の定食。適当にこれとこれ、などと注文したら、巨大生ハムメロン。スイカほどのメロンにべろんと生ハムが乗っていて、生ハムメロンは高級なオードブルだと思っていたのに、あんなものがお昼のメインになるとは。もっともメロンと言っても、日本のように高級なネットメロンじゃなくて、瓜のようなメロン。しかし生ハムメロンは生ハムメロンなので満足。生ハムメロンなんてのは日本に入って悪しき高級化してしまったんじゃなかろか。もうひとつの定食は、かつおのような魚をソテーしただけで、かすかすして、そっちは不味かった。
 2度目にノウ・サリューに行ったときは日曜で定食なし。無難にパエリアを選んだから問題なしだったけど、その日はデザート。アレだコレだと思案、推理した結果、出てきたのはクリームブリュレ。それはいいんだけれど、もうひとつのデザートが、ドライいちじくやナッツに甘い果実酒がついてきた。これには唖然。デザートというのは、いちおくケーキ系統を予想してるのに、これっておつまみじゃないの。しかしこれが意外と美味しかったというのも不思議。

 あせったのは、ローマの2日目に行ったテレシアーネ?(THERESIANE)。ピザの窯にごうごうと火が入っているレストラン。日本のようにごたごた乗ったんじゃなしにシンプルにバジルだけのようなピザがいいと思っていたのだが、はたして隣の席の家族連れを見ると、いかにもそのようなピザを食っていた。あれだ!と、店のおにいちゃんに、「隣で食ってるピザ」と注文。ところが出てきたのは、端切れのような、なんちゅうたらエエの?煎餅みたいなピザはピザ。いちおうピザのベースに、オリ−ブオイルにニンニクをなすりつけて焼いただけのワインのあてにしかならないようなピザで、丸い形ではなくて、やっぱりツマミにするのか、一口くらいの大きさにざくざくに切られてごちゃごちゃと乗って出てきた。実はこれも隣のテーブルに、たぶんあれは2人前分くらいだったか、どーんと乗っていて、他にもいろいろと注文していたようで、ほとんど手をつけないままに、しまいには下げてくれと言ってさげてもらってたのだった。失敗、失敗。確かにピザといえばピザだけど。あわてて、カプリチョーザ(ミックスピザ)を注文し直した。

 バスティーユのシェ・ポールというレストランは、るるぶなどにも載っていて、非常に客が多くて、座った席がちょうどウェートレスの子らが料理を運ぶのに行ったり来たりして落ち着かなかった。それと客がぎっしりいっぱいで、パリに限ったことではないが、あの連中は食ってるときも静かにならへん。まぁそれはそれでエエんでしょうが。向かい合わせに座ったら、日頃食いながらでかい声でしゃべらないと聞こえなくて。食事時の会話といえば、カサボティンでちょっと離れたテーブルに座っていた日本人親子、娘が20代後半、お母さんが60近くか、食事の間、もくもくと豚の丸焼きを食ってるの、見ていて全然美味しそうやないんよ。いかにもつまらなさそうに食事をしているという風情で、ああいう類のレストランではわいわい食べる方が楽しいのに。ポール・ボキューズで食ってんじゃないんだからさ。
 話が横にそれた。あとで書くけど、前の日のモンマルトルでは二人とも魚だったので、ひとつは魚、ひとつは肉を適当に注文。いちおうフィッシュ?ミート?ぐらいは通じるのだ。魚はいさぎのような魚を丸ごとソテーにしたもの。醤油がほしい。舌平目とおぼしきものもあったのに、舌平目のムニエルなら日本で食べれるだろうとパスしたのが間違い。丸ごと焼くのなら、やっぱり日本の焼き魚にしたほうが絶対に美味しい。そして、びっくりは肉料理。これもステーキだったらバカでかいからいやだなあとステーキはパスしていた(実際、隣のテーブルででっかいステ−キを食っていたのだ)。出てきたのは直径10cmほどにどんと盛られた極く荒く挽いた生肉の山。一瞬、肉とは思えなかった。こればかりは食ったことない。だからそれは正解なのだ。わけわからないものを注文して、食ったことのないものを食べようという趣旨だから。う〜ん、これは説明しにくい。日本で言うと、ネギトロとでも言うたらいいのか。食材が生肉だからユッヶと言うたらいいのか。どっちかというとネギトロに近い。ケッパーや、ハーブがぐちょぐちょに混ぜ込まれていて、なかばペースト状になっていて、バケットにつけて食うと非常に美味しい。ところがいかんせん量が多くて、摩訶不思議な美味も早々に飽きてしまった。ああいうのはちょっとだからいいんだよ。

 モンマルトルで入ったオゥトゥールデミディ?(Autour de Midi)。はじめモンマルトルの丘に上がっていくとき、美味しそうなレストランを見つけていて、そこに行ったらいっぱいで入れなかった。ところがそこはイタ飯だったのがわかって、入れなくてラッキー。フランスのパスタは茹で過ぎで美味しくないと聞いていたから。そこで勘だけで飛び込んだのがここ。この店はメニューがなくてその日のメニューが黒板に書かれていて、でぇーんとおねえちゃんが持ってくる。話は長くなるけれど、このおねえちゃんがどいうわけか切れていて、たぶん忙しくて、客がまだかまだかとか聞いたりして、厨房とケンカ状態。ただこのおねえちゃん、頭にスカーフを巻いていて、きりっとした顔立ちの美人。そこで勝手に《怒れるフェルメール》と命名。話戻して、その黒板のメニューをまたまたアレだコレだ、きっとこれはまたあの巨大生ハムメロンだろうとか、推理。一つは魚にして、一つは肉にしようかと、いちおう念のために、これは肉やんなぁとおそるおそる《怒れるフェルメール》に英語で尋ねた。それはポークで、足のとこだと、指で足をさしたから、ん?豚足、じゃあ、これにするとやばいなとパスして、また適当に別の魚料理を注文。でもあとで思ったんだけど、フランスで豚足使った料理なんかあったか?たぶんすね肉をどないかしたもんやったんとちゃうやろか。
 さて出てきたのはスズキのような魚を薄くスライスしたものをグリルで焼いてローズマリーかなんかの香辛料を効かせたオリーブオイルをからめたもの。もうひとつは同じ魚をクリームソースで味付けしたもの。どちらもきれいに放射状に魚の身、それにつけあわせの茄子、ズッキーニを並べて盛りつけてあって、さすがフランス。残念だったのは2皿とも同じ食材だったことくらい。ことばがもうちょっとわかってたらなぁ。ちょうど座っていた席から、おやっさんと日本に連れてきたらきっともてもてになるだろう兄ちゃんが厨房で作ってるのが見えて、帰りぎわにはマーニャは厨房の方に行って「美味しかったぁ」とわざわざ言いに行ってんの。《怒れるフェルメール》も、きんきんしてるのだけれど、目が合うたびにニコっとしてたら、ボクらのテーブルには非常に愛想が良くて、ことばも必要だけど、やっぱりスマイルが大事だね。

つづく
 






■2003/08/30 Sat■  欧羅巴食慾綺譚 (3) [長年日記]

 あっちの連中ってのはなんであんなに大食いなんだろう。そのことにあきれ返るばかり。日本のいわゆるめし屋と言われる、おかずを2,3品とってごはんにみそ汁というパターンは存在しないのか。確かにデリというのはあるけれど。
 今回の旅行でも1週間はなんとかもった。それでもスペインに移ってからは、朝はビュッフェ形式で食べ放題だから、ついつい貧乏くさくあれもこれもと食ってしまう。まずコーヒーは3杯、それにジュース、シリアル、もちろんパン。スペインのバケットはあまり美味しくなかったから食パン。それからハム、チーズ。チーズはクリームチーズに、それから何チーズかわからないチーズ。ホテルによって違ったのだけれど、日本のチーズじゃないから、つい喜んで食う。ボクはあの日本のプロセスチーズってのあまり好きじゃないから。かと言って、カマンベールにしたって、日本じゃ高いからなぁ。ここぞとばかりにチーズは必須。ハムもホテルによってちがったけれど、何種類かあって、だいたいあの日本のハム、つまり肉を集積したような、日本ハムとかプリマハムとかってのあまり好きじゃないから。それにあの類のハムは日本じゃ高いからなぁ。ここぞとばかりにハムも必須。
 だいたい日頃、朝は一人で起きてコーヒー淹れて、そそとトースト焼いて、という生活をしているから、ゆっくり30分もかけて、あれやこれやと朝食、というのは実に至福のときなのです。一通り食べ終ったあとにも、ゆっくりタバコをすいながらコーヒーを飲むなんてのは夢のような。そんな調子で朝食べているから、お昼はおなかが空かない。ちなみにホテルの朝食は決まって朝7時半から11時。ところがヨーロッパはサマータイムで、夜の8時になってやっと日が沈むしね、9時頃まで明るい。だいたい感覚的に2時間ずらして考えたほうがいい。そんなんでお昼を食べるタイミングというのが難しい。というわけで、後半のマドリッド、パリでは1日2食。
 ついでにパリの朝食は、バケット1/2、クロワッサン、デニッシュ、ヨーグルト、クリームチーズ、ジュース、コーヒーで、ハムや玉子はなし。そしてパリあたりではすっかり胃が弱っていたから、朝も食いきれない。ところが残すのはもったいないので、ビンボくさい話、バケットは朝に食べないで、間にバターを塗ってお昼に公園とかでおやつがわりに食べてた。これがまた美味しいんだわ。確か、あっちの習慣ではカフェにもちこみは可だったはず。というか、カフェというのはパブリックな場なので注文などしなくても座っていてもよいなんてことをどこかで読んだけれど、ボクたち気の弱い日本人にはそんなことはできません。だから公園とか、スズメや鳩にパンくずやりながら食べたのだ。もちろん飲み物は水。をー、ビンボくさっ。
 飲み物が水になるのにはひとつ理由があって、そうそうジュ−スばかり飲みたくなるわけでなく、いや、むしろジュースは飲みたくない。しかし連中はコーラや炭酸系好きだよ、あきれるくらい。ところが、炭酸系やジュース、それから水以外の飲み物というのは食料品店においてない。日本じゃ牛乳の500mlパックとかもよくあるのに、牛乳の消費量がぐんと多いはずなのに牛乳がおいてないというのはどういうことなんだろ。マドリッドで入った店で、ミルク、レチェと言って、ちゃんと通じているのに、粉のスキムミルクしかないという始末。パリでは、やっとスーパーで牛乳見つけたけれど、表示がもちろんフラ語だったので、えいっと選んで買ったのがスキムミルクで不味かったなぁ。
 ミルクの話になったのでついでにぼやいておくと、30年前、ヨーロッパのコーヒーは美味しいと思った。それはエスプレッソでシュバっと淹れるのが新鮮だったから。今度の旅行でもコーヒーは楽しみにしてたんだけれど、どうも期待ほどのことはなかった。エスプレッソは今年になって自分ちでも淹れてるしね、カプチーノとかはボクのつくるほうが絶対美味い。その原因は牛乳。どうもオーレにしろ、カフェコンレチェにしろ、フォーム(泡立てた牛乳)作るのは雑だし、何よりも使ってるのがどうやらスキムミルクなのだ。牛乳自体が美味しくないのだ。とくにホテルの朝のコーヒーは美味しくはなかったな。
 一度、ローマの石だらけの遺跡で暑くてたまらなかったので、入ったカフェでメニューを見てたら、「カフェシェーク」というのがあって、これだ!と注文したら、なんとコーヒーをシェーカーでシェークしてカクテルグラスに入れたのが出てきたのにはたまげた。いっこも冷たいこともあらへん。マックシェークじゃないんだって(笑) 元来アイスコーヒーという概念は連中にはないみたい。ただどこだったか、アイスドカフェと注文したら、これでいいかと、コーヒーとは別に、氷を入れたグラスを出してくれて、自分で熱いコーヒーをどどと氷に注ぐ仕組み。それに味をしめて、そのあと2,3度、コーヒーとそれから氷をくれと注文した。でもやっぱり夏でもコーヒーは熱いほうがいい。コーヒーついでに書いておくと、アイスコーヒーというのは、かなり特別なので、缶コーヒーなんてのはありません。もちろんコーヒー牛乳も。

 話がはじめ考えていたのとどんどん逸れて行って、つぎは水の話になります。いくら空気が乾燥していて日本のように暑く感じなかったといっても、やっぱり夏だから水は必需品。とくにボクなんかビール好きちゃうしね、ワインを水替わりになんてとんでもないことなので、水だけはいつも持ち歩いてた。実際、スペイン人はワインを水替わりに飲むなんて、ありゃウソです。それは食事時の話、あるいはバールでちょいと一杯なんてことは日常のようだけれど、水替わりにワインを持ち歩いていたらアル中でしょ。やっぱり、水やなんらかの飲み物を持ち歩いている。あとつくづく日本人でよかったなぁと思ったのはお茶だね。冷たいお茶。冷たくなくてもいい、持ち歩くの、水よりお茶のほうがなんぼいいか。
 ローマでは水に困らなかったです。はじめはペットボトルの水を買ってたんだけれど、スペイン広場の前の泉なんかでは、みんな水をペットボトルに入れてるのを見て、水なんか買う必要ないな、ペットボトルさえあれば、いつでも水はたんまりある。さすがにトレビの泉なんかは無理だけれど、蜂の噴水だとか、バブイーノ通りの泉とか、町のあちこちに飲める水が湧き出ていて、その量は郡上八幡どころじゃない。ただ日本の水とはちがって、かなり硬くて慣れないと辛いけど、冷たくて美味しかった。だいたいヨソで水にやられるから生水はやめたほうがいいというけれど、ローマは別だね。湧き水なんだから大丈夫に決まってる。水道水のほうが信用できないでしょ。
 だからスペイン、パリでは水に困った。昼間はまだいいんだよ。そこらの店で1.5リットルのエビアンが1ユーロくらいで売ってるから。安いからといって、これを大量に持ち歩くわけにいかない。あ、そっか、いま思いついた。ホテルの近くのスーパーで昼間に買って、部屋においとけばいいのだ。ところだ、そういう店はサマータイムであろうが7時か8時に閉まる。感覚的に5時6時に閉まってしまう。そうすると、かの地にはコンビニがない! 日頃、日本にいてあまりのコンビニの多さに辟易してるけれど、これほどコンビニというのが便利だと思い知らされるとは。コンビニの是非については、いまはおいとくけど、9時,10時となると、開いているのはカフェやバールばかり。確かにそこでも水は買えるけれど高いでしょ。たまらずにサンジェルマン・デュプレのクレープ屋台でエビアン買ったけど、0.5リットルが2ユーロ、ざっと6倍だ!
 日本で辟易するもうひとつの代表は自動販売機。これもほとんど全くといってなかったな。あったのはパリのメトロのホーム。もちろんタバコの自販機は1台も見なかった。タバコの自販機がないというのはエエことですが、夜にタバコ切れたらどうしてんだろ。アメリカでは少なくともコンビニがあって、もちろんコンビニ店内に入れなくて、小さな窓口で欲しいものを言って売ってもらうというシステム。そう考えたら、日本って国は、能天気に安全でコンビニ(便利)だとつくづく思った。ただ自販機とコンビニが町の景観を支配してしまっているのも否定できないけれど。

 大食いの話を書くつもりだったのに。それはまたあしたにでも。

(つづく)
 










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