Pと初めてまともに話をしたときに、Pがボクに聞いてきたのは「10年先にどうなってるか考えたことある?」だった。ボクは「ない。考えたってわからんし、どうなるかわかったもんちゃうから考える気ぃなんかせえへんやろ」と答えた。
猫に未来がないとすれば、猫にあるのは過去ばかりで、悪く言えば執念深い、遺恨を抱えて生きているわけだ。ボクが最初に遊んだ猫はGの家にいた猫で、Gのところに遊びに行くとどういうわけか、ボクにすぐすり寄ってきた。たぶん雌猫だったにちがいない。あるとき猫の目の前に指を突きだしてやると、その指にじゃれついてきたので、そのうち指をトンボにやるように回し始めた。するとボクの指先をずっと目で追いかけて、そのうちころんと寝転がってしまって、仰向けになってもまだ指先を追いかけている。完全に目が回ってしまって、そのあとふらふらになってまっすぐ歩けない状態になってしまった。それからGの家にいっても、その猫はボクに寄りつかなくなり、逆にボクを見ると逃げ出すようになってしまった。恨まれてたんだ。
『猫に未来はない』には長新太が猫の挿絵を描いていて、ボクは大学時代、その絵を刺繍した枕カバーで寝ていた。
いい加減、歳をとると、つまりこれまでの時間に比べて残りの時間の方が絶対に短いと感じられるようになってくると、どうしても過去を引っ張り出してきてしまう。ボクなんかの場合はそこんところは適当でいいんだけど、上の「ギプス」じゃないけれど、写真家の場合は時を刻みつけることが飯を食ってるわけで、シャッターを押す瞬間瞬間に過去になっていくというのが宿命となってしまってんだよね。 そういうことを考えてしまうのは、実はいま写真家の森山大道の『犬の記憶』を読んでるから。そこで彼はそのことに葛藤してるんだよね。ところが過去ということに限らず人間というのは、形を残したいという業に縛れているわけだから、前へ前へ走ろうとすればするほどに、足跡という過去がひとつひとつ増えていくことになる。そういう二律背反を孕んでいるわけだ。ボクなんてのは、そこへもってきてナルちゃんだから、その足跡を石膏で型とってでも残していきたいってくらいでどうしようもない。 ボクがまだ高校、大学だったころに、親父が「大昔のことなんだけどな」と切りだして、彼がまだ学生だったころの話をよくした。大昔、むかしむかし、山へ柴刈りに..... その話を、いまその当時の親父の歳にまでなって、自分に置き換えてみると、どこが「大昔のことなんだけどな」という気がする。ついきのうのことのような。ジミヘンが死んだ、三島が自決したなんていうのはまだリアルタイムでしかないような気がする。この30年というものずとリアルタイムのまま。それは全く成長していないというべきか、いつまでもひきずって生きているというべきなのか。うまくまとめておくとすれば、少年のまま。 ということで落ちができたのできょうはこのへんにしといたろ。