寝転がってぱらぱらと詩手帖を見る。鈴木志郎康先生の『純粋処女魂、グングンちゃん!』なんか読みながら、にやにやにやと一人にやついて、な、な、ボクがかつて詩、好きだったなんて、この志郎康先生の詩の題を見るだけで納得できるだろ。志郎康先生の名誉のために断っておくけど、この『純粋処女魂、グングンちゃん!』、題から想像できるよりはるかに過激。
奔出する亀戸血液!亀戸九丁目の工場廃液も及ばぬ美しさ父亀吉の亀の太首切られたぞ
その志郎康先生の日記《曲腰徒歩新聞》を読んでると、
「最近は脚が痛くて歩くのがままならないので、駅まで行くにも自転車を使い、行く先も駅で降りてから歩く距離があると適当にタクシーを使うということになって、」
まず足にくるからねぇ、老化。うちのすぐ下のおばちゃんも階段の上り下りがつらくなって引っ越して行ってしまった。もう10年以上も前のことだが、オヤジと釣りに行って、テトラポットの上をひょいひょいと飛んでいたら、オヤジは後ろからもたもたとおぼつかない足取りでやって来る。そのときかな、オヤジも歳とってしまったなぁって初めて思ったのは。さいわい、ボク自身はまだまだ足腰は大丈夫。 話は横にそれたけれど、「家から外出先へ往き還りする道筋がだいぶ変わっ」て、「いつの間にか風景が変わっている。ホームに立つ場所も変わって、そこでのわたしの視野も変わる。」 いろんな要因で視線が変わっていく。通勤の道筋しかり。感じられる彼女の風景も道筋と一緒に変わっていく。そして「ホームに立つ場所も変わ」るように、彼女に対して立つ場所も変わって、ボクの視野も変わる。 この世界のどこかで生きている、それだけでいい。