図書館で借りてきた種村季弘の『徘徊老人の夏』を朝に持って出ようと用意してたら、Bが笑いよる。なんでやねん(@_@) 『徘徊老人の夏』ってタイトルがなんともいいのだ。それにもましてこの表紙の写真エエでしょう。あこがれる。まだデジカメ持ってうろちょろしてるようでは青いんでしょうな。 そしてバリウムの便意に耐えながら、読んでいると、「コイン空間」なる言葉が出てくる。つまり「コイン空間にはおおむね千円以下の、玩具っぽい、ぺらぺらちゃらちゃらした安物の物品のみが集積され」「一度味をしめると病みつきになりかねない」。さらに「コイン空間の住人は、概して子供そのものか子供っぽい人間に限られる」と。 然り。また「万札のデパート、千円・五千円札のスーパー、コインのコンビニ」というのも正しいかもしれない。が、しかし、コインの原点は市場・商店街にあるというのは信じて疑わない。孟母三遷の教えすら知らなかった愚かな母は、いや、オカンはボクや弟が市場で育ってしまうことから遠ざけようとしなかった。だからいまだに市場・商店街文化、すなわち種村季弘のいう「コイン空間」から抜け出せないでいる。セーユーではだめなのだ。ジャスコではだめなのだ。コロッケを道々食い歩くことのできないのは耐えられない。 思うに市場の鶏屋の奥は非常に怪しい空間であった。水を流せるように床はコンクリを打ちっ放しのうす暗い空間であった。ついこないだ九条の商店街をひとり徘徊しているとき、そのうす暗い怪しい空間を見い出して心が震えた。そこでは人が生きるための営みを代行してくれていたのだ。 市場を歩かずして、なのだとつくづく思うのだった。