あのですね、6〜7年ほど前のボクを知っている人なら知ってるのだが、1999年の秋ごろから激しく体重を落としたのだよ。当時の日記参照。その減らし方というのはダイエットのお手本とでもいうべきでしょうか。だいたいね、人生すべて女を基点に考えてる人間ですから、彼女いない状態、もしくはそれに近い状態になると、放埓・怠惰な生活に陥って、そこに待っているのは飽食地獄。で、ぶくぶくと。 わたくし、99年夏の九州ツーリングの際、別府竹瓦温泉でセルフタイマーで撮ったセルフポートレイトを見て愕然といたしました。まさにトドじゃないでつか。これはいけないと思いつつも、やっと秋からエアロビクスに励み、そうするとその疲れからか食えなくなり、しだいに飽食地獄から脱却。そうして日々刻々、意気揚々と体重計に乗り、そしてそれをEXCELに記録、グラフ化した甲斐があって、見事、2000年になると、彼女ができた!んだったよなぁ(曖昧に遠い目)。 さて、ここ数年、彼女いません。先ごろ「募集ちう」と日記でも呼びかけたのに応募メールは南都雄二(誰も知らんか)0だったのであるます。そうしてじりじりと飽食地獄が忍び寄ってきた。以前に比べ、まだ救いは、テニスのせいでしょう、急激な体重増加にはつながってはいませんが、それでもじりじりじりと。適度な運動・過度の食事、これでつな、問題は。そうしてテニス疲れでなぁーんもせんとマックに向かって座る日々。 わたくし、きのう風呂に入ったときに、おのが裸体を見てあせりましたです。豊かな胸、とくに右のおっぱいは超ど貧乳の女より大きくなっているじゃありませんか。これはテニスによるものだから致し方ないとしても、問題は肉ベルト。あと一歩で完済されるところまで行っておきながら、またしても出現した肉ベルト。これじゃ、仮にいくら「デブ専」を豪語する女がいたとしても、女の前で裸になるなんて、わたくしのナルシシズムが許しません。お願い、暗くして…
決めました。原因は何か、ずばり飽食です。《おかわり自由》というデフレシフトのいも膳やかつふじで昼飯を食っているのがいけないのだ。だから胃袋が大きくなり、飯食ってもまた腹へつたなとすぐ間食。ずばり原因は《おかわり自由》にあったのですよ(大発見!) 決めました。《おかわり自由》にそそのかされてはいけない。貧乏人根性は敵だ。もったいないおばけは消えうせろ。 そうして、きょうのお昼、ごはんのお替りをぐっとこらえたのでした。かき揚げなんぞ油もん食ってたらだめでつか。GWまでに、せめて、せめて2kg減量。そうでないとバラ色のGWは、そして太陽がまぶしかったのさ(異邦人風に)の夏は、来ないのだよ。
時々、これまでに書いた日記をばさっと削除してしまう人がいるが、私には信じられない。そうやってリセットをかけて新たな一歩を踏み出せる人もいるのだろうが、私にとって過去を否定するのは未来を否定することであり、自分自身を否定することだ。
ずっとこの日記を見てくれてる人ならわかるだろうけれど、このtDiaryに移ったの、あれ?いつだったかな、まだ1年になっていないはず。それまでは自前のcgiに書きつないでた。そして、ここしばらく2000年1月からこっちしか、日記はWEB上で公開してなかった。 ほんとに古くからボクのことを知っててくれる人は、internetのアカウントをとってすぐくらいの1996年の夏くらいからWEB日記書いてたし、メガ日記(うをー、なつかし)のほうにも転載してた。残念ながら男なもんでね、そうそうどっと読みに来てくれるわけでもなかったけど。97〜99年の日記は、先にも書いたようにばっさり削除なんかできるわけがなくて、こっそりリンクだけは外してWEB上においたままっだったのさ。つい最近になって、とち狂ったように、97〜99年もこのtDiaryに移して曝してしまった。再び曝したのにそう意味があってのことじゃない。単に突発的行動であります。 そうなると、いっそ96〜97年あたりもアップしたろかと。が、さすがに、この時期は知る人ぞ知るってわけで、劇症心炎のせいで、ばさっと削除したのだよ。ただしWEB上だけな。HDのどっかにおいたはずだと探したけれど、ふははは、FDに記憶させて、HDからは削除してしまってたのだ。いまくらいのHDの容量があったら、HDにも残ってたんだろうけどな、FDだとこのまま消え去るかもな。
なんか、初めに書こうと思っていたこととずいぶんずれてきております。 「過去を否定するのは未来を否定することであり、自分自身を否定すること」などとそこまでマジに考えてるわけでなく、未来なんてどうなるかわからない、あした突然死んでしまうかもしれず、そんな未来のことを思いはかって過去を大切にとっておくなんてできない。そうそうPちゃんとの初デートの時、Pちゃんが「10年先のことを考えたことある?」だったな、もちろん「ない」。長田弘の『猫に未来はない』というほどに未来を考える脳の部分が欠落してるんでしょう。どっちかというと、猫型人間だしね。 ところがね、未来を考えることはできなくても、現在の自分自身はそうした過去の上に成り立っているのは事実で、Pちゃんを愛していたボクだから、いま君のことを愛してしまったし、君がかつて彼を愛していて、そして今でも尊敬している、そういう君だからこそ、そしてそういうすべてを含めた君を愛してるよ。
はい、それぞれ自分の思いを語りつくしましょう。
あのですね、きょう《まごぽん》にアップした辻邦生の『私の二都物語』だけどね、「東京では職業が歩いているが、パリでは人間が歩いている。」ってね、あたかもパリはウィで、東京(日本)はノンと言ってるようで引用しなかった。 続いて「パリで人間の宿命をあらわに見ることに慣れると、男と女は、職業・身分・家などという社会的外被を剥ぎ取られ、まさしく〈男〉と〈女〉に還元されてしまう。男と女は出遇い、別れるその関係の図式が、何の粉飾もなく露呈される。」 そんなもん東京だろうが、大阪だろうが、どこであったって、そういうふうに出遇う男と女はいるもんで、別にパリだからというわけでもなかろう。どこであろうが、「社会的外被」が必要なやつは必要なんだよ。ま、ベッドインするのに、いきなりすっぽんぽんというよりは、下着を脱がすという楽しみくらい残しておいてくれたほうがありがたいのだけどな、それでも「社会的外被」をかなぐり棄てたところで恋に落ちるということもあるわけだろ。 なんか気にいらんな、辻邦生。アポリネールは好きだけどな。 ところでアポリネールには『69』などといういかがわしい題名(しかもわざわざ90度回転!)の詩もあるのだよ(赤面)。