なんて歌がありました。森山加代子だよっ。へっ、森山加代子知らん? 森山加代子ってねぇいや、これってさほどの意味があるわけでもなくて、ただちょっと思い出しただけ。実際、GWの疲れか、身体の節々がだるくてね、とくに股関節脱臼かしらん。そうそう、GWの虚脱状態。その余韻にひたっているヒマもなく、びしばし仕事。そらあかんワ。人間だらだらとせな。 というわけで、ここまでは話の枕(作:清少納言)で、こっから話をどう展開させようかと、理解に苦しむ(むちゃくちゃな日本語) あの「余韻」なんですけどね、朝起きますですね、ここで一首詠みます...
長からむ 心もしらず 黒髪の みだれてけさは 物をこそ思へ
うむ、なかなかの出来だ。それでですねぇ、この余韻なんですね。ベッドに寝ころがったまま、ハイライトに火をつける。乱れたシーツにぼおーっと目をやっていると、そこにちぢれた陰毛が。そう、きのうの夜、キミはあんなに乱れたのだった、ここからは枕の話(作:素性法師)「ねぇ、ずっと一緒にいてくれる? そんなことわかんないよねぇ、でもでも....あなたと一緒にいたらわたしは…」と耳もとで囁くのを、事後のタバコをくゆらせながら、まだじっとりと濡れたまんこに指を遊ばせて…なんて余韻に浸っていられるってのは非常に大事なんですよ。 そいうえば、ボクの高校時代に沢たまきが「ベッドでタバコを喫わないで」などと歌っていたのですが、その歌を聞きながら、猛烈に「事後のタバコ」に憧れたものでした。 やぁ、それでですね、そのような余韻もいつかはきりをつけないといけないわけで、空になったハイライトのパッケージをぐしゃっと握りつぶして、この次、ここに帰って来るのはいつだろうか、そのときまでハイライトのパッケージはそのままなんだろうかなどと思いながら、部屋を出ていく。
GW明けの最初の週末、いかがお過ごしですか?
光悦寺を出て、またぷらぷらと歩き始めたら、《血天井》などと書かれた立て札が目に入って、そのまま通り過ぎたんだけど、気になって引っ返してみた。血の天井、何かの血をベンガラ代わりにでもして塗り込めたのか? いや、怨念が籠もってんじゃないのか、なんて想像してみて、ふっと入ってみた。すると、本道脇の入り口の所に30足ほどの靴が脱がれていて、光悦寺なんかよりずっと商売繁盛しておる。と、言っても金閣、銀閣の比ではないけど。伏見城落城の際の血痕らしく、やっぱり怨念がらみか、どうもこの人気、とくに意外と若い子らが多いのは、ホラーだとか言って紹介されたんでしょ。その天井を眺めてみたけど、手形がついているというのもあんまり判然としないしねぇ、そういうホラーにはほとんど興味ないので、とりたてて一生懸命見ようとはしなかった。同じなら処刑した人間の血をベンガラ代わりに塗り込めたというほうがおどろおどろしくてよろしい。 それより、「迷いの窓」「悟りの窓」と称する、四角い窓と円い窓が並んでいて、その窓からお寺の庭が見えるほうが興味深かった。「血天井」を目当て(?)にやってきた人も、血天井にはほとんど目をやらず、その窓の前で記念写真。ピカッ! こりゃ、静かに瞑想しろ、瞑想。ほんまなみんながデジカメなんぞを持つようになって、またそのデジカメが《わたしにも写せます》的オートなもんだから、ところかまわずピカッ、ピカッてのは考えもんだわ。 ボクはね、迷いの窓に正対して、おのが煩悩への思いにはまってたのだよ。それでな、「悟りの窓」に向かうよりは「迷いの窓」に向かっている方が心落ち着くってのも、何かの因業なのか。悟りなどいらない。ずっとずっと迷いの中で生きていたいと。
そのように愛する、 自由な雲雀は 歌と高みを、 朝の花は空の香りを、
そしてわたしはきみを 湧きたぎる血で。 青春と喜びと 勇気とを、
新しい歌と舞踏とを、 わたしにあたえてくれるきみ! 永遠に幸福なれ、 きみの愛とともに。
いきなり、すんまそん。五月なんもんでね、やっぱり華々しくギョエテの『五月の歌』……こんなんやったか? あら、『五月の歌』ってリルケやなかったか?と、ネットで検索かけたら出てきたのが、このゲーテのだから、たぶんそうだったんでしょ。 考えてみれば、『五月の歌』を贈るよ、なんて、まぁなんて気障な手紙を書いたもんだわ。手紙だぞ、手紙、メールとちゃうぞ。ゑゐ、へんかぁ〜ん、じゃなくて、机のそこらにほりだしてあったゲーテの詩集から、万年筆で、一字一句書き写したんだよ。そして君に贈った。 いつの頃からか、詩なんてのも読まなくなった。五月の光から逃げるように、ジャズ喫茶の暗がりでむさぼるようにことばをさがし続けていたのに
5月に もう期待するのはよそう
と詠んだのは、白石かずこだった.... Dive to the sheets