ぶらぶらと先斗町を抜けて円山公園まで歩く。を、阿必館でもブレッソンやってんだ。駐車場から車を出して、東大路を左に曲がればいいものを、ふいと右に曲がってしまった。この前からちょっとはまっている開放で夜の町を写してみたかった。南禅寺に車を向けて、さすがにもう8時になると、このあたりもひっそりとしているのだ。写そうと思っていたあてはあった。が、ちょうどそのとき後ろに車がついてしまって仕方なく走り過ぎる。そしてまたしてもふいと携帯に手を伸ばして、さっきばったり出会った所クンに電話を入れる。何となくこのまま帰りたくなかったのかもしれない。「今から遊ぼか」「あ、いいですねぇ、遊んでくださいよ」「どこにいてるん?」「鴨川です」(をっとぉー、18歳美少女と鴨川で、むふふふ、まんまと邪魔してやった)
三条川端で二人を拾う。本日2度目の3Pプレーの始まり、始まり。
「どこ行く?」「どこって、あ、何か食べさせてくださいよ」「いーや、いま食べたとこやもん」「あ、ボクらも食べたところです」 あてもなくただ車を走らせる。北山通りに行ったらこじゃれてて車駐められる店あるかもと北山に向かう。その間に二人の関係を詰問してやる。「ただの後輩ですよ」って、あのね、ただの後輩を鴨川の河原で何もせんのか。最低限、手ぇぐらい握るだろ。肩ぐらい抱くだろ。周囲の雰囲気がそういうベクトルをもってるだろうに。あ、そうか、仮にそうだとしても言えないよな。 北山通りに着いた。「どこ行く?」「わかりませんよ。てきとーに」あ、あのね、キミ、京都在住でしょ。若いんでしょ。夜遊びしてんでしょ。ボクから言うのも何だが、この所クン、甘いマスクで女がほっとくわけがない。現にいまも18歳美少女を鴨川で…、「お前は童貞かぁ〜」と思わず叫びそうになった。どんどん車は北山通りをはずれたほうに行く。あ〜、めんどくさい、こうなったら、ほんやら洞に戻って、(そのすぐ近くに住んでいる)川上やら小渕やら呼び出そう。 というわけで、再びほんやら洞。川上や小渕が来たら18歳美少女がと案じる所クンを脅して無理っくり呼び出す。さらに川上の彼女のキンちゃんも呼び出して、くんずほぐれつの乱交パーティー。それから3時間近く、所クンが案じた通りに、川上・小渕のタッグチームに所クンの甘い夜は消えてしまったのである。揚げ句の果てに、ボク、18歳美少女と携番交換やっちゃったし(爆) だいたい酔狂にも河原町なんぞで後ろから携帯入れてきたキミが悪いのだ。 さて刻々と時は過ぎて、さすがにボクも大阪まで帰らないかん。さぁ帰るぞとなって、18歳美少女、帰る足がないことが判明。願ったり叶ったりじゃんか。ボ、ボクが送ったルぅ〜ん♪ あわれ所クン、今度テニスしよなぁ〜 あぅ、リミッターが……
光悦寺に源光庵はつい4か月ほど前におしのびで来たところだったのが、まぁいいかぁ。この夫婦、ありきたりのところに連れていったんじゃ満足しないだろうし、特に夫さんのほうは去年も一人で京都に来て、自転車で回ったという。をい、高校生か。源光庵のね、迷いの窓と悟りの窓ね、この前のときは迷いの窓のほうに惹きつけられていたのだが、きょうは悟りの窓のほうが引力を感じてしまう。迷いの窓は素の窓にしか見えないんだよ。でもな、よぉく考えてみれば、あの2つの窓が単独であったとしても、何がどうってことないのじゃないか。視界に丸い窓と矩形の窓が同時にとらえられるから、それが脳内回路でコンタクトしてセロトニンの分泌異常…何を言うとるんですか、ようは交感神経と副交感神経みたいなもんだわ。だから、いまは悟りの窓なの。悟りの窓が語りかけてくるの。
ところでさすがテキスト集まりってかね、夫さんがこの前に京都へ来たときのことをテキストにしてるのね。それをまた妻さんはプリントアウトしてきて、車の中でそれを読み始める。その妻の「あなたがそんあに感動したというところを見てみたい」と、その一言で大徳寺へ向かう。大徳寺って何遍も京都へ行ってるけど、一度も入ったことがなかった。知ってることは大徳寺納豆というだけ。これも食ったことない。だって納豆だもん。大徳寺というのは、小さい寺が集まって形成された、ボルボックスのような共同体。なんじゃ、それ? 要するに大徳寺という囲いの中にいくつもの寺や庵が収まっているのであります。それだったらね、ひとつひとつで拝観料取らないで、共通拝観券なるものを出してくれよ。と、あなた、ディズニーランドやUSJじゃないんだから。 瑞峯院。を、石庭なのですねぃ。石庭=竜安寺としか頭にはなくて申し訳ない。石庭を前に修学旅行の高校生数人が坊さんから説教を受けている。「姿勢よくしなさい。」そうそう、丹田呼吸ですよ、大事です。「腰というのはにくづきにかなめ」はい、そうそう、腰は体全体の要になってるからね、大事、大事。あと、むにゃむにゃむにゃ…。この瑞峯院の枯山水の石の粒はとても荒くてごつごつしている。なんか意味があるんでしょう。この枯山水を見て人は何を想ふ。お堂の反対側にもうひとつ小さな石庭があって、これは隠れキリシタンの十字架を著しているというのはレクチャーされてた。なるほどねと見ていると、先程の坊さんが現れて、この後ろにある灯籠の下にマリア様が埋められていて、その灯籠からこのお庭を見ますと、十字架になるのであります。」 龍源院。ここの東滴壺という小さな小さな石庭が、夫さんがこの前の京都一人旅でいたく感動したという石庭。ボクはっていうと、兎を狙う狼の眼になってしまって、いけませんねぇ、仮にも禅寺でしょ、すべての煩悩を断ちきって悟りの境地に入らないといけないのに、お庭を前にたたずむ人たちが何想ふのか気になっていけない、いけない。土門拳の土俵に引っ張り込まれた荒木経惟の気分だわ(笑) うん、なるほど、そうか、そうか、光の量がいいんだねなどとてきとーなことを言っておく。