大学生の頃、ゼミの先生に「生きて行くためには苦悩が大事だ」と言われ、「私だっていろいろ悩んでいます」と言ったら、「おまえのは苦悩じゃなくて苦労だ」と言われたことがあります。あれから10年以上たった今も「苦悩」と「苦労」の違いがよくわかっていない、ノー天気なワタクシです。
きのうテニスの帰りにみんなでガストに行ったら、各テーブルにコンピューターまがいのものが置いてあって、《悩んでいるとき、一人で悩むほう?友だちに相談するほう?》という質問が現れた。それをいじっていたのが「そんなん、友だちにしゃべってしまうけれど、答えは先に決まっている」と、あれ?どっちと答えよったんやろ。
あのですね、携帯にしたって同じことな。電車の中の携帯通話が疎ましがられるのは、周囲の人間はすべてその会話からあらかじめ疎外されてんだよ。そこへでかい声でしゃべる。聞こえてくるのは聞かされるものにとって100%どうでもいい話。みんながみんな、必要最小限の大きさでしゃべっていたら、こんなに車内での通話が禁止されることなどなかったはず。実際通話じゃなくて話している相手が目の前にいるならある程度は我慢もする。それでもある程度な。
ところで昼飯を食いに外に出たのだよ。淡い期待をもってね(9/17参照)。ところが、同じように幼稚園に子どもを迎えに行った帰りのオカンだろうか、子どもをそれぞれに積んだ2台の自転車。その一方のオカンが、物理的にでか声女。ほんと艶気もへったくれもあったもんじゃない。自転車を走らせながら、もう一人のママさんにでっかい声でしゃべっている。 「ボタン、ぽんと押すだけで、だーっと合計出てくんねんで」 「うちはなぁ、なんちゅうの、いまどきの家庭やねんわ」 アホか。そんなことでっかい声でしゃべるようなことか。パソに、牛乳168円、豆腐58円とか打ち込んで、家計簿つけてんでしょ。あ〜、情けなぁ〜。家計簿、必死につけて、10円でも安いスーパーに駆け回ってる。イケテナイ。そんなものをなんぼパソにぶちこんで、どうせ安〜いだけのウィンでしょ、それを自慢気にでっかい声でしゃべってるの、恥ずかしいと思いなさい。そんなパソで家計簿つけてるの自慢してないで、そのパソで出会い系にでも行けや。そしたら、ちとは男が群がってきて、おしゃれのひとつでもしたくなるはず。そして、その恥ずかしいデカ声も直るんとちゃうか。
やっぱり悩みなんてないや。
こないだとこり夫妻と京都行ったときのこと、《それにしても、源光庵の窓の前でのまご兄のまじめな顔つきは、なかなか忘れがたい印象を残しております。》(INPUT★OUTPUT blog版 9/22)とな。「迷いの窓」に「悟りの窓」ね。そのことはまご日記の9/19にも書いたのだが、「迷いの窓」に吸い込まれて行くのか「悟りの窓」に吸い込まれて行くのか、それがこないだは「悟りの窓」に引力を感じてしまってる。不思議だなぁと思ってた。決して禅宗でいうところの「悟り」などとはほど遠く、相も変わらず煩悩だらけで生きてるはずなのに。少しは悟れよということなのか、どうして「悟り」なんだろうと考えこんでしまってた。そしてそのあと大徳寺に行って、ちょっと美人のお姉さんが石庭を前にひとりで想いに耽ってるのを見て、ボクもつい感情移入してしまってる。《いつものエロギャグ炸裂のおちゃらけおじさん》(ほっとけ!)にもいろいろ想うところはあるのだよ。 悩みとはすべからく煩悩なり。