《「不毛」それ自体が生きてゆく手がかりとなりはじめた。廃墟にある文明の究極の静けさが未来に旅立ちとなった。写真の素晴らしいところは、その表現が「究極の無」であることだ。「そこに何もない」その爽やかさが僕を飽きさせない。宇宙そのもののように。》
バイクで走り回って、野宿を繰り返していたときに、朝になってテントを撤収する。そうすると、ついさっきまであった空間が消えてしまう。ポリエステルだか、なんだかの薄い布によって仕切られた空間の中でボク自身の非日常的な生活があったことなどもう忘れてしまったような、何もなくなった空間を見ていた。 同じことが紅テントや黒テントでの芝居、もっと遡れば、寺山修司のあのサーカス小屋なども同様に、そこに仕切られていたはずの劇的空間に、いまはただ風が吹き抜けるだけ。その「無」を体験して、なおさらそこにあった空間が愛おしく思えてくる。匂いが脳の一部に刻み込まれる。 不思議なことに、ボクが写真に撮ってきたものは、それからしばらく後には撮り壊されてしまう。やがてその同じ場所に新しくものが生まれる。 こんなことをしみじみ考えてしまうのも秋のせいかもしれない。
メアリーがやってきた。むっとした湿気を多量に含んだ吐息を送り込んで。そして彼女が通り過ぎたあとには、涼しい風が彼女を追いかけた。
というコピーのすごさ。そして乗り換えた地下鉄には同じ『ニキータ』の車内吊りで《コムスメに勝つ!》の部分が《モテる30オンナの作り方》に置き換っていた。 「艶女」のルビとして「アデージョ」がふられている。ところで「アデージョ」って何語なん? たぶんきっと《あだ【婀娜】 女の,色っぽくなまめかしいさま。「ーな年増(としま)」(新辞林)》から作った造語なんでしょ。イタリア語じゃないよな。 それで、気になるのが「アデージョ」もそうだけれど、「コムスメ」「モテる」「30オンナ」というカタカナ語。古〜っと言われるだろうけれど、カタカナってのは外来語にあてられるというふうに教わってきた世代としては、をー、ここまで来たかって気になる。「パクる」とか「サボる」とかいうような遣い方はボクもよくしてしまってる。「パクる」はわからんけれど、「サボタージュ」を日本語の動詞化させたものじゃないのか。「怠ける」というのはあっても「さぼる」という日本語はなかったような気がする。それに対して「コムスメ」「モテる」「30オンナ」というのは元々、「小娘」「持てる」「30女」日本語としてあったのに、わざわざカタカナにしてるのだ。そのような遣い方が良くないなどという考えはさらさらないのだが、車内吊りの少ない語数の中でこれだけ連発されるのもなぁって気がする。
言語なんて優柔不断でいいじゃないかと思っているので、国語がどうとかいう気はあまりない。そのことよりファッション雑誌が30代にシフトされてきたほうが興味深い。それで思うのはエロビデオ界でもいっときコムスメ(=ピチピチギャル)一辺倒だったのに、最近は「熟女」モノがずらーっと並ぶ。コムスメがアヘアヘ喘ぐエロビデオが行き着くところまで行き着いてしまって、いい加減食傷気味になってるのも事実だけれど、やっぱり、結婚する気のない女、男もそうだけれど、そういう人種が増えてきて、彼女達がこぞって30代になったことによるんじゃないか。 ちょっとその当の主婦と生活社の『ニキータ』のサイトを見てみると、
だよ。うんうん、なるほど、当たり前じゃんか。「もう歳なのだから」なんて言ってる女ははなから失格。そそられない。だけれど、その一方で、《ブランドクイーン》なんて言葉が出てくるようじゃねぇ。所詮、スポンサーあっての雑誌だね。ターゲットが変ったところで、ファッション雑誌としてのつまらなさがほの見える。 ほんとの「アデージョ」は、こんな雑誌に振り回されることもなく「アデージョ」として存在するんだよっ。あ、だから《モテる30オンナの作り方》なんだ。作られた「アデージョ」ってのもねぇ、諦めた30オンナなんかにくらべりゃ、努力しようってことではるかにいいオンナだけど。 ちなみに、『ニキータ』というタイトルからすぐ連想できたことだが、
この岸田というのはどんな敏腕編集長だか知らないが、『レオン』に『ニキータ』ですか。安易すぎるだろ。お先が見えてるな。