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うらまご/まごまご日記/まごっと/まごれびゅ/P-FUNK/maggot

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■2004/12/05 Sun■  じゃれあってるだけでも勃起はするが(とこりさんへのトラックバック) [長年日記]

 誰もがそうすべきってわけではないけれど。

 以前に書いた携帯のメールで愛なんか語れない、という話、あくまで「愛を語る」であって、じゃれついてる分には携帯メールというのは非常に便利でよろしい。PCのメールなんかでじゃれつけなかったもん。まして手紙なんかじゃとてもとても。ところが、逆にじっくり愛を語ることができた。携帯メールは、利便性のために語ることを失いつつあるんじゃないか。まるで人魚姫のように。
 そのことと同じなんだと思うんだね、いまのblogっていうのは。タグなんか知らなくても、ホームページ作成ソフトを使わなくても、フォームにタッタッタと打ち込むだけでホームページができる。ヘタなホームページよりずっとすっきりまとまったページができ上がる。しかもほとんどがタダで。まさかblogに書くのに、テキストエディターで下書きしてる人はいないでしょ。ちなみにボクはこのまご日記はクロバーダイアリーという日記ソフトに下書きして、<br>や<blockquote>などのタグをつけて、テンプレートに流し込んでから、フォームの窓にコピペしているのだが、うらまごになるとフォームの窓に直接書き込んでしまってる。
 これって、また携帯のメールと比較してしまうけれど、携帯の液晶の大きさと、PCメールを書くときのモニターの大きさの差に似ている。つまりその大きさの中で収束してしまっている。要するにblogじゃ、携帯メールのようにじゃれあうことしかできない。もちろん、じゃれあってるだけでも勃起はするもんですが。いまさらって話になるけれど、Pちゃんとも携帯を持つようになって、愛を語ることがどんどん希薄になって、という気が、今でもする。

 ついでなので書いておくと、例えばきょう12/5一日のページビュー数は678、ユニークユーザー数369で、一人当たりのページビューは1.89。リンク元サイトはhttp://search.yahoo.co.jp/が204でトップ。リピーター割合が9%。早い話が見に来てくれる人の大半が一回こっきりの一見さんだね。まぁ言うなればタチの悪い風俗店ってとこでしょか、うちのサイトは。ほらほら、扇情的なタイトルで気を引こうとしてるでしょ、きょうも。そういう一見さんを邪険にしてはいけないのだが、「うらびでお」で検索(どうして「裏ビデオ」でなく「うらびでお」なのか、訝しいったらありゃしない)してやってくる人なんか相手にしてられない。そんなのでアクセス数が増えたって少しもうれしくもない。うらまごなんて、「相手の気持ち、立場、他人の迷惑などには無関心」な室宿の星のボクが自分のためのメモにしてるだけのこと。あわよくば、そこから興味でももってくれたらいいというくらいにしか考えてない。

 なんだか、話が宙に浮いたままで着陸点が見つからない。うーんとですね、 文章を書きたい、文章を読みたいってことです。あっちこっちにケンカ売りまくっておくと、例えば花村萬月なんて、いまや文章書けなくなった人だね。すこすこ。もういっぺん初心に戻れや、と。をっと、変なところに不時着してしまったようで、おやすみなさい。






■2004/12/04 Sat■  ことこ《わたくしは文章が書きたいのです。読みたいのです。》へのトラックバック [長年日記]

ミクシ日記はもちろんのこと、このダイアリーに書かれていることどもも、まるで文章と呼んではならないものたちばかりでそろそろ嫌になってきました。きちんと長い文章を、センテンスのある文章を、パラグラフのある文章を、書きたい。中身なんて意味なんて内容なんてなくてもいいのだ。
 そう、ミクシとか流行のブログ見ていてうんざりするのは文章に巡り合わないこと。それらはそれでいいのかもしれない。他愛のないおしゃべりなんだから。いまの時代に、文章をしゃべるおしゃべりなんか存在していなくて、単語の羅列だけでおしゃべりが成立するのだから。ちょっとボクもミクにも日記は書いてはみたけれど、ボクもことこっつと同様に「文章が書きたいのです。読みたい」ので、続けて書こうという気がしなくて、もうやぁーめたと投げ出した。現実でも2〜3人程度の間でのおしゃべりならよくしてるけれど、それより多く集まってのおしゃべりは苦手だ。ましてや、不特定多数に文章にもならないおしゃべりはしたくない。みっちりとした文章がいい。
 あちこち回ってチェックしてみたけれど、結局またテキ庵に戻ってきてしまった。blog流行で、いまやテキストは影を潜めてしまっているのだが、いちおう最初の《「段落文体」のテキストに特化しています》というテキ庵のお約束のおかげで、そこからたどればある程度、文章を読むことはできる。
 blog流行ということで敢えて書いておくと、とこりさんの『しゃべりたがる私』はすごく好きでずっと読んでいたのだけれど、はてなに移ってから、つまり『しゃべりたがる私のINPUT★OUTPUT』になってからなんだかつまらない。とこりさんとて、blogの形式に惑わされたのか、文章がぐっと減ってしまってる。
 確かにblogの利便性はあるけれど、ボクに限って言えば、文章を書こう、読もうという雰囲気にさせてくれない。文章を書くための道具じゃないと思う。ずっと以前に「携帯メールで愛は語れない」と書いたけれど、blogに現れているのは携帯メールと同じじゃないのかという気がする。しっかり愛を語るのならせめてPCメールと思うのと同じで、しっかりとした文章に行き当たりたかったらblogではダメなのかもしれない。
 ついでだから書いておくと、はてなでむちゃくちゃに嫌いなのが、キーワードの自動リンク。あれ、ほっといたらとんでもない語までおせっかいにリンクつけてくれる。例えばとこりさんの12/03の記述(何度もひきあいに出してごめんなさい)
聞くところによるとディズニーランドミッキーたちは、「ミッキーは本物だ!」と信じている子供たちのために
とキーワードリンクが付いている。このアンダーラインうざくないですか? 文章というものを損ねているとボクは思うんだけれど。あの文脈でミッキーをクリックしてみようという人はいないはずだし、ミッキーに注意を向けたいはずもない。なのに二度もアンダーラインが入ってしまう。ボクのまご本では、cssをいじって、キーワードリンクにアンダーラインが入ることを回避したり、キーワードのチェックを極力はずしている。理央さんの『安田理央の恥ずかしいblog』もはてなに移った最初はおびただしい数のアンダーラインに蝕まれていた。最近はチェック入れてリンクを外してるようでホッとしている。
 ボクだって、うらまごはblog仕様にしてしまってるけれど、あっちはメモ、メモ。文章なんて書く気はない。アルツの彼方に消え去るのをなんとかしようとしてるだけ。最後にもう一度、ことこっつの名言を引用
文章を書いていないと、読んでいないと、文章との接し方がわからなくなる。



■2004/12/03 Fri■  yesかnoかの状況 [長年日記]

 というわけで、『ねじまき鳥クロニクル』を読み始めてるんだが、例えば
十時前に雨が降りはじめた。たいした雨ではない。降っているのかいないのかよくわからない程度のかすかな雨だ。でも目を凝らして見ると、たしかに雨が降っていることがわかる。世界には雨が降っている状況と、雨が降っていない状況があり、その状況にはどこかで境界線が引かれなくてはならないのだ。僕はしばらくのあいだ、縁側に腰を下ろして、そのどこかにあるはずの境界線をじっと睨んでいた。
 たぶん、これはあとから、こっち側とあっち側の境界線というような意味をもつのかもしれないけれど(まだ第5章までしか読んでない)、これを読みながら、雨の降ってるところと降ってないところの境目というのは小さいころにすごく気になったことを思い出した。その境目はきっちりと線を引けるようなものでなく、かなり曖昧としているということに大きくなって気がついた。つまり、「降っているのかいないのかよくわからない程度のかすかな雨」の降るところが、線ではなく、帯のように連なっている。雨の降りはじめというのはまさにそのような帯が自分のところに動いてきている。
 そのことは誰もが体験しているのに、それが境目であるとほとんど誰もが思っていない。みんなもっと明確な境目、雨の激しさが連続的に変化する境界帯じゃなく、降っている降っていないの不連続な境界線を見たがる。そのようなかなり(激しさの変化が)不連続な境界線が存在しないこともないけれど、それとて変化があまりに急激なだけだ。そうすると、境界線などではなくて、境界帯でしかない。その帯の中での変化が急激であるか、緩慢かの差はあるにせよ。
 こう言うとまた、どこまでが帯なんだという人もいるんだろうな。物理の話にすると、雨粒が落下するときにはじめは重力だけでgの加速度で落下するが、雨粒の落下速度に比例して空気抵抗を受け、加速度は小さくなって、やがて一定速度(終端速度)で落下する。その現象でいつ終端速度になるのかを知りたがるのと同じようにナンセンスなんだよ。
 雨に限ったことでなく、さまざまな状況に人間は境界線を引きたがる。たとえば生死の境界線。脈拍で判断するのか、脳波で判断するとか。が、死に行く人は生から死への境界帯のなかにあるにすぎないんじゃないか。何をもって死と判定するか、それは何をもって雨が降っていると判断するのかと同じじゃないのか。

 そんなことを考えながら読んでいると、なかなか読み進まない。と、同時に作家ってのは大変だなぁと思う。日常的に感じたりしたことを膨らませて作品の中にとり込んでくるわけだから、そんなものはまめにメモでもしておかないと、さっさと忘却の彼方に追いやられてしまう。もっともそうして固定しようとすると「雨が降っている状況」なんてことばに変質してしまうんだろうな。そんな「雨が降っている状況」ということばにはとても違和感を感じてしまうのだった。




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