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■2004/06/16 Wed■  浄閑寺 [長年日記]

路地裏猫日誌を見ていたら東京・三輪の浄閑寺のことが書かれてあった(04/06/03(Thu))。この路地裏猫日誌の作者のなるさんって人が、その浄閑寺の近くに住んでいるらしくて、浄閑寺の境内から猫を拾ってきたらしい。その浄閑寺の記事はもう10日以上も前のことで、そうそうボクも浄閑寺へ行ったときのことを書かなければと思いつつ、ほたらかし。書こうという気分にならなかったのも事実だったのだが。

路地裏猫日誌にも書かれているように、浄閑寺は吉原遊女の投込み寺で、ここには吉原総霊塔というその遊女の慰霊碑がある。その慰霊碑の向いに永井荷風の文学碑もある。そしてこの浄閑寺の正面に荒木経惟のにんべん屋下駄店があった。路地裏猫日誌によると、荒木経惟の名付け親はなんと浄閑寺の住職だったそうで、道理で経惟なんて抹香臭い名前だったわけだ。そんなことはたぶん荒木経惟自身がどこかに書いてんだろうけど、読んでない。ちなみに経惟なんて読めません。ボクはいまだに「ケイツイ」って読んでるし、中平卓馬はなんと「きょうかたびら」と読んでいた。
さて、去年あたりから、ボクはカメラ持って、旧赤線跡を歩き回っていて、去年の春に東京に行ったときは、吉原、玉ノ井、鳩の街、小岩井と歩いてた。吉原に行ったときは、ついでだからにんべん屋下駄店のあった跡も探したれなんて、三輪にまで車を走らせていたのに、ちゃんと調べてなかったから、どこかわからず。浄閑寺の存在も知ってはいたけど、駐車できる場所を探して走ってるうちに離れてしまった。そのかわり樋口一葉博物館に行った。
今年はアラーキーの写真を仔細に見て、あら、浄閑寺の真ん前じゃないのってことがわかっていたから、まっすぐ地下鉄の何線だかで三輪まで行って、さっさと見つけた。にんべん屋下駄店はもうとっくになくなって、ただの駐車場になっていて、近くの商店のトラックが駐まっていただけ。別にボクにとってなんてこともなかった。そりゃそうだな、荒木経惟にとっては私写真だけど、ボクにはそこまでの思い入れなんかないんだから。あ〜、あの写真はこのアングルだなと想像してにやついてただけ。
とは言っても、今年のテーマは唐十郎・荒木経惟だったから、それはそれでよかったの。唐十郎の下谷万年町も行ったし、見事にはずされたけどな。当たり前。だからある意味で、その時撮った写真はボクにとっての私写真となりうるんだよね。
それよりも

    われは明治の兒ならずや
    去りし明治の兒ならずや
と刻まれた文学碑に、ぐっと来てしまってね、ちょうどその日4月2日は朝から小雨が降ったりやんだりで、歩くのには困るほどの雨ではなかったけれど、その文学碑の御影石が濡れていて、ますます気分にさせられてしまったのだった。

 →浄閑寺と永井荷風



 


■2004/06/15 Tue■  やっぱり次生まれてくるときは [長年日記]

平日のお散歩、それも堂島近辺のオフィス街を徘徊してると、男どもはみな一様にネクタイ・スーツ。歩道では400円の弁当が売られている。そして入った北新地の天ぷら屋のとなりの小上がりからは女の笑い声。やっぱり次生まれてくるときは女だな。
そういった社会的なわずらわしさにとらわれないでいられる男は数%、それに入ることができれば男もまんざら悪くはないが、やっぱり女がいい。きっと女は女でわずらわしいというだろうけれど、妙ちきりんな社会的責任から解放されとるもんねぇ。女だから....なんて、一見女を小バカにしたようでそれがいいんだな。女だから、別に何だっていいわけでしょ。男だから、いっぱしの大学出て、いっぱしの企業に勤めて。いっぱしのスーツ着て、400円弁当食ってろ。

話はけろっと変わって、きのう図書館のギャラリーのようなところで、《埋もれた西区の川と橋》なる展覧会?が催されていた。そうしてきょうその一部を歩いていると、古地図なんぞが道に設置されていた。こういうのに興味を示すようになるのもたぶんに爺臭くなった証なんだけれど、それはそれでおもしろいのだよ。筋違橋なんて、橋のあったままにななめに道路がついていたりする。そんな古地図を見ていると、御堂筋にしたって、かなり後になってばしっと通されたってのがわかる。それ以上に陸運より水運のほうがより占めていたというのがよくわかる。なるほどなって。
して、紙屋治兵衛の家があったとされる天神橋から曽根崎新地までまっすぐ道一本で通えた。そうすると、心中のときに、治兵衛が新地まで小春を迎えに行って、網島までの道行はやっぱり自分の家は避けて通ったんだろうなと、下世話なことを考えてみた。



 


■2004/06/14 Mon■  identification [長年日記]

神代辰巳監督の『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』を見ていたわけですよ。そこでおもろいのは、宇崎竜童は国籍がないという、つまり幽霊民族なわけ。そして原田美枝子の戸籍もむちゃくちゃで、捨て子だったらしく、どこかに入籍というか、戸籍として登録されたのが、実際に2,3年遅れてたという。だから、戸籍上の年齢より実際の年齢のほうが2つ3つ上だった。

原「わたし、アレとアレが人より早かったのよね」
宇「アレとアレって、何よ」
原「わたし、小学生の頃に高利貸と呼ばれてたの。もうがすごい」

二人とも、いわゆる「どこの馬の骨やらわからんもん」なわけです。あらかじめ社会的なidentification、いわゆるIDが失われてしまっている、また必要としてない。原田美枝子にとってのIDはじゃらじゃらとついた過去の男の家の鍵。IDなんてのは自分で証明すればいいんだよ。というより自分自身(の方法)で証明すべきことなんだよね。戸籍抄本やら住民票やら持ってこい言われて持っては行くけど、はたしてそれで自分であるということが証明されたなんて誰も思ってないのも事実であります。
とにかくくだらんidentificationが多すぎらぁな。名札ひとつにしたってそう。デパガが胸に《黒田笑》なんて名札つけてるのを見て、そのデパガにどっかで「エミさ〜ん」って声かけてくるやもしれず、「黒田笑の身内のものですが...」などと突然電話入れてコネつけようなんて男がいるかもしれず、そのほうがあぶないよなぁ。これって個人情報の一部流失だろうに。
誰に対してでも自分であることを証明する必要なんてなくて、ほれ、風俗の予約入れるのに自分の本名使うバカがいないのと同じで、ごく限られた特定の人間にだけ自分のidentificationを示せばいいでしょ。そう考えると、社会的なidentificationなんてのも風俗で使う偽名と同じレベルのものかと。



 


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